3月9日。土曜。晴れ。
散歩から帰ると、裏庭に若い牡鹿が佇んでいた。こちらに気付いても逃げもせず、座ってじっと見つめている。その眼の奥が読み取れなかった。何故ならとても、穏やかな眼差しに見えたから。
が、その様子がむしろ、こちらを不安にさせた。一歩近づいてみた。するとヨロヨロと牡鹿は立ち上がった。もっと詳しく表現すれば、まるで生まれたての鹿のように、膝をガクガクさせながらよろめいていた。足を、どこかでやられてしまって、すくんでいたのだ。
その様子に、どうもしてやれない気持ちがつのった。こちらがそれに焦り、また不用意に近づくと、牡鹿は必死で立ち上がり、よろけ、恐らく死にものぐるいで、ごつごつとした岩だらけの川をようやっと渡り、山側へと消えて行った。
3月10日。日曜。雨。
ストラビンスキーの「火の鳥」「春の祭典」の公演を観に出掛けた。「火の鳥」は打楽器とモダンバレエ。「春の祭典」はピアノの連弾とモダンバレエ。あの複雑な楽曲を、単楽器が見事に心の底まで響いた。照明の陰影に浮かぶダンサー達の鍛え上げられた肉体、指の先まで行き届いた表情は、人間というものの美しさを改めてこちら側に思い知らせた。両腕に伝わる音圧。立体的な演出。無駄に思えるものは何も無かった。
恐らくは2時間足らず。こんなにも短い時間の中で、確かに会場中が一体となった。そこに集う人々は恐らく、同じ方向を向いていただろう。
3月11日。晴れ。
帰り道。ふと母校前を車で通り過ぎようとした時、校門の前に、白梅の老木が咲き誇っていた。今年の夏、耐震性の問題にて、歴史ある建物が全面建て替えになる。ふと、その梅に誘われるように、校門をくぐり、校舎の中に足を踏み入れた。建て替えられる前に、きちんと許可を取って、せめて写真に残そうと決めて以来、むしろすくんで立ち入れなかった場所。
何を真っ先に感じたかと云えば、意外な事に臭覚だった。油びきされた、木造廊下の匂い。タイル張りの手洗い場の、しめっぽい匂い。講堂のピロードカーテンの、埃っぽい匂い。教室で女の子達が食べるカップラーメンの匂い・・・。ところどころはがれた壁や、丸みのある階段の木造手すり、そんな直接的ディティールに触れるよりも、確かに変わらないと心を揺らせたのは、それら、空間ごとに異なる匂いだった。
特定の信仰を持たない私ですが、いつも持ち歩く手帳には、以下、般若心経の現代語訳を記して、何かここから見えるものがあるかと何度も読み返しています。が、勿論解釈など、到底及びません。眼の領域から意識の領域に至る、その隅々で、物事を感じ捉えねばと、恐らくは達観者から観れば、躍起になっています。
現実から眼を反らすなかれと自戒。忘れるべからず、合掌。