紫陽花は、おおよそなんでも知っている。

 庭の紫陽花が見頃になった。
 猫の額に毛が生えたような広さの庭には、元々家主さんが植えられた白いガクアジサイ、ここに引っ越してから植えたもので遅咲きの品種、そして、私が20代半ば、写真を撮り始めた頃に買った青系と薄紅系のガクアジサイ、合計4つ株がある。

 紫陽花というのは地植えするといよいよ、これは草花じゃなくって立派な樹木なんだな、と再認識するもので、この時期になると庭いっぱい、視界いっぱいを占拠する。あまりに大手を振るものだから、花が終わる7月初めには強めの剪定をするが、毎年律儀に花を咲かせている。
 紫陽花の寿命は一体、何年なのだろう。調べると数十年と、書かれているのはどれも曖昧。要するに、長いとも短いとも決して分からない、人間の寿命に似たものなのかな、と思っている。
 若い頃に私が買った紫陽花は、思い返せば5度の引越しを経験している。草花を育てることにそう関心がなかった頃には何度も枯れかけて、山際に住んでいた頃には3日にあけて現れる野生の鹿に食べ散らかされた。それでも生きて、花を咲かせている。

 ちなみに、我が家にある草花、樹木で一番長生きなのは棕櫚竹だろう。これはもう、物心がついた頃には当たり前のように存在しているから、樹齢何年か分からない。その間一体何度、引越しを経験し、争いを見聞きし、山あり谷ありの幸福を見つめたろうか。一度花を咲かせたことがあって、数十年と花は咲かないらしく、良くない(枯れる)前兆という迷信に慌てて花を切り落とした。全盛期の勢いは無いが、ともあれ生きてくれている。確かに、その年悲しいことはあった。
 花や木というのは、自分の側にやって来た頃を覚えておくといい。よく、人生の節目に植えられることもあるが、綺麗、可愛いの最初の衝動から、共に長い人生を歩むと、こちらに励ましや喜びを与えてくれたり、直接語ってくれることは無くとも思い出を共有出来たりする。時に辿れば苦い記憶も、花を咲かせて微笑みに変えてくれる。生き生きと透けた葉脈、雨露に濡れた姿も美しい。かつてこれらを大事にしていた人。かつてこれらを贈ってくれた人。みんな、覚えている。共に暮らせば互いに元気で生きよう、来年もまた会おうと思う。そして、永遠の命は誰にも約束されてはいないから、どちらの命が先かは知れないが、誰かに継いでもらえたらとかすかに望む。そう、思われた存在だから、継いで、自分も生きようと思う。
 上の写真は、今年はあまり蕾をつけなかったアマリリス。これももう、少なくとも30年近くは側にいてくれている。勝手口通路に密集して自生している、薬草としても名高いドクダミを添えて。