MIZKAN MUSEUM
出張続きのこぼれ話。愛知県は知多半島、半田まで。
半田という街は「醸造のまち」として名高く、酒、酢、醤油、味噌などの産地として知られる。
その中でも、日本人にはあまりに馴染み深い「ミツカン酢」の牙城であり創業の地であるのはあまりに有名。黒板壁の蔵が運河沿いに建ち並ぶ中に、明治の頃から使われている、誰もが一度は目にしたことがある筈のミツカンマーク(創業家の家紋プラス、天下一円に行き渡るよう、との思いが込められた丸印がそのデザインの由来)がシンプルに白く浮かんでいて、これだけで会社理念や美意識が想像出来てわっ!と息をのむ。ちなみに江戸時代、本来なら諸藩が行うべき街や運河のインフラ整備も、ミツカン創業家が当時私財を投げ打って整えたと言うから驚きだ。
遡ること江戸時代。ミツカンは元は酒造業を営んでいたが、日本酒製造の飽和に伴い、本業の日本酒製造競争に限界を感じていた。そこで江戸では空前の寿司ブームが沸き起こっている様子に勝機を見出し、日本酒製造の副産物である「酒粕」に着目。この酒粕を使って酢をつくろうではないかと行動を起こす。
元来、日本酒を製造する蔵が酢を作るなどタブー中のタブー。何故なら、誤って酒桶に酢酸菌が混入したらお酒が全部「酢」になってしまうから。しかしながら社運をかけた一大挑戦は見事成功し、1枚の帆で風を受けて江戸まで到達する船に積まれた酒粕による赤酢は瞬く間に江戸に広がり、江戸前握り寿司の爆発的人気を更に後押しした。
ちなみに酒粕による酢は、3年もの熟成発酵期間を経る為に、米を主原料とする無色に近い透明の酢とは違って赤い液体である。完成までに長い時間を必要とするものの、当時大変貴重だった米とは違って副産物を原料とする為原価が抑えられた事、酒粕由来である為酸味が丸く、またほのかに甘い事から砂糖を控える(あるいは砂糖自体加えずに)事から、寿司飯作りに相性が良いと重宝されたのも要因だ。現在、巷に溢れる寿司と言えばシャリは米の色をしているが、今も本格的な江戸前握り寿司のシャリはこの赤酢によりほんのり赤みを帯びている。
さて、写真向かって右手はミツカンの蔵。そして左手はミツカンミュージアムとして整備され、製造工程や歴史のあれこれ、貴重な資料群が体験型で触れられる博物館となっている。このプレゼンテーションやインスタレーションがまた圧巻。何もかも、あまりにかっこよすぎて度肝を抜かれ、最後はあまりに商品自体がメジャー過ぎて庶民的と感じていた企業イメージがいい意味で完全に覆されて、なんと素晴らしい企業理念を持たれたところなんだ!と、感動すら覚える。
昨今。
口に入るものを製造する大大企業って、いずれもどこかケミカルファクトリーな印象も持たれて、下手すると見たことも無いのに宗教レベルに添加物まみれって怖い、なんて言うネガキャンも貼られる場合もあるが、実際、製造されている過程に触れるべく現場を訪ねると、昔も今も変わらず、生真面目なほど信念に沿って、丁寧に、ものづくりされている企業も本当にたくさん存在する。私個人の仕事柄、日本酒や焼酎など、酒造りに関わる所を訪ねることが近年多いが、酒イコール諸々体に悪い、なんてイメージの真反対に、いまだにこんな作り方してるんだ!とびっくりするほど、アナログで、手仕事で、材料も全くの天然由来で、(過ぎなければ)実際はまさしく健康酒じゃないか!と思うほどだったりする。一方で、これらを製造する上で欠くことが出来ない、例えば巨大な木桶や陶器の甕も、その産地や職人自体消滅してしまって、切実な問題にも直面している。要するにかなりの絶滅危惧種だったりもする。
ので、是非、文化を守るためにも皆さん、自国のお酒に親しんで呑んで欲しい。
酒の文化館にて。
豊かな豪商の街、半田にあってミツカン創業家「中埜(明治期に商標登録を機に中野より改め)」家の本業であった酒造業は、現在も中埜酒造として酒造りを行なっている。
その歴史を伝える「酒の文化館」にて、興味深い古写真の展示があった。
日中戦争と太平洋戦争にかけて、戦局の悪化により物資不足を補うため、「金属類回収令」と言うものが勅令にて行われた。酒造りに欠かせない大釜(館内にて展示)も例外無く供出される運命にあったが、特例として日本軍への酒造納品のため、没収を免れたのだと言う。中埜酒造の代表銘酒である「国盛」と言う名は、その文字の縁起の良さもあって当時軍にて大変重宝されたそうだ。
古写真が伝える、各地の寺院の無数の釣鐘が供出される直前、僧侶らが手を合わせている光景には、その歴史の重みと悲しみを感じて止まなかった。
半田赤レンガ建物にて。
明治31年に「カブトビール」製造工場として誕生。
明治建築界の3巨匠の一人、妻木頼黄(横浜赤レンガ倉庫や日本橋など)による設計にて、日本のビール製造の歴史を担う大手4大ビールメーカー(サッポロ、アサヒ、キリン、エビス)へ果敢に挑戦したカブトビール飛躍の地である。
中埜酢店(ミツカン創業家)と敷島製パン創業者の盛田氏(ソニー創業家)によって起業されたカブトビール(明治22年初出荷時は丸三ビールと名付けられていた)。
明治33年にはパリ万博にて金賞を受賞し、生産量を伸ばしたが日露戦争後の景気後退、その後の太平洋戦争にて工場は閉鎖。
戦中末期は飛行機製作所、戦後は食品工場として使われたのち、全ての役割を終え、全面解体される運命にあった所を、解体途中にて反対運動から一転、保存され、補強整備を終えて今も残った。
平成16年、登録有形文化財指定。平成21年、近代化産業遺産登録。平成26年、半田市指定景観重要建造物第1号指定。
東南海地震、三河地震、半田空襲に見舞われるもその姿を残し、半田空襲の際にはP-51戦闘機から受けた機銃掃射の傷跡も生々しく残っている。
半田の黒板壁の蔵群は戦火を免れたが、街の家々を始め、大規模かつシンボリックな建物であった半田赤レンガ建物も標的となり、あたりは一面の焼け野原になったと言う。
半田の運河を眺めながら。
遠く豪商によって整備され、今も海に向かって流れ続く運河にて思う。
今現在、のどかで平和な街並みとその暮らしにも、振り返ればきっと、辛く悲しい過去が存在する。それでも懸命に生き伸びた過去によって存在する現在がある。
人一人に託された時間はそう、長くは無いけれど、過去、現在、未来と、その命を繋いで語り継ぐことで、大切に出来るものがあるんじゃないか。
そのあいだ、あいだを繋ぐ時、人の感情というのはそれぞれ違ったり、波を作ったり、伝える方角を変えたりするから、事実をただ淡々と無言で伝える実体物、街、建物、などの物体の存在は、大きな役割を担うんじゃないか。
過去のもの、古いものを残す時。センチメンタルとか、メモリアルとかって言う小さな枠だけで括られて論争されるのを嫌う私の中の理由を、この街でまた見つけて、確信したのであった。