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鹿児島宮崎。旅先で聞いた、良いお話。

 

 空路。行きは鹿児島着、帰りは宮崎発にて3泊4日。

 仕事前。飛行機の便を少し早めて、クライアントとの合流まで、空港からそう遠くないエリアを散策してみる。図らずも、坂本龍馬がお龍さんを連れて、寺田屋事件での手傷を癒しに訪れた地をなぞっていた。霧島の連なる山々には湧き出る温泉の湯けむりがそこかしこに立ち上がって居て、かすかな硫黄臭、地熱のあたたかさのようなものを感じる。どうやらこの辺り、二人が巡ったことで日本初の新婚旅行の地と呼ばれるらしいが、山中の眼下に広がる雄大な空と、錦江湾に浮かぶ桜島も望んだに違いない。幕末の慌ただしさにもきっと、今昔そう変わる筈のない自然に触れて、心と体の湯治は出来ただろう。
 坂本龍馬が旅の途中に姉にあてた手紙の一節に、それがうかがえる。

 「げに、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり。ここに十日ばかりも止まりあそび、谷川の流れにて魚をつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかり(略)」

 そう言えば、生まれ育った高知を離れ、夫婦して長野に完全移住した教え子がその理由に「高知には長野みたいに温泉文化が無くて。二人とも長野が好きで何度も通ううち、水が合うのか温泉がいいのか、滞在する度に子供の頃からのアトピー性皮膚炎が治まるから、それならいっそ、全部引き払って(パソコンのアドレスまで、笑)」なんて言っていたな。

 

 さて、今回の出張では様々な方にお会いして、仕事の合間の雑談にて良いお話を色々伺った。そのまま埋もれては勿体ないので、断片的だけれど備忘録として、以下に書き記そうと思う。

 

 お父さんお母さん、そして、息子の3人で芋を栽培している鹿児島の芋農家さんに会った。
お父さん曰く「関西からよくお越しくださいました。私も若い頃、大阪で仕事してたんですが、息子が生まれてすぐ、ここに戻ってきました。これまでいろんなものを栽培してきたけど、雨にやられても、風にやられてもしっかり成長してくれる、芋の栽培が一番ここには合ってるんですよ」。

 

 お伺いした宮崎の某焼酎蔵元さんからお聞きしたお話。
「焼酎かすはこれまで、有償で捨ててきたんです。しかし焼酎はそもそも、世界で唯一添加物の無い酒。つまり焼酎カスも自然そのものですから家畜の餌にしようではないかと言う事で、会社として取り組みました。そのカスですが、そのままでは発酵し続けて日持ちがしないのが最大のネックでした。そこで専用設備を整え、遠心分離で水分と分けて、固形物は一旦乾燥させ、水分は濃縮させてもう一度合わせ、地元宮崎牛などの餌として出荷しています。栄養価がとても高くて安全な餌だから、これまで牛に与えてきた餌の量の約8割程に抑えられる。そうすると毎日のウンチも減るという事で、高齢化が進む酪農家さんも労働負担が減り、牛も添加物の無い食べ物で病気やストレスも無く育ち、肉質もとても良くなります。そしてウンチも肥料に加工され、土に還ります。安全な土によってまた、作物が育ちます。本来ならば豚や鳥の餌にも出来るんですが、全国の酪農家さんから問い合わせが多くて、現状はまだ、うちでは牛の餌だけで精いっぱいなんですが。。。」と。

 

 収穫の秋。

 この時期はいずれも人手が足りないほど、芋焼酎の蔵元では、ベルトコンベアでどんどん流れてくる芋のヘタや痛んだところを取り除く、通称「芋切り」要員で、シルバー派遣からもお年寄りが芋切りのパートにやってくる。背丈の可愛らしい、みんな、日に焼けてまんまるした働き者のお母さん達が勢揃いして、軽快に包丁を振りかざしている。「小規模、大規模な蔵元のいずれも、他の工程はどんなに機械化されたとして、この芋切りだけは手作業でないと出来ないんです」との事だそうだ。

 

 それぞれの蔵元の集う所には、見事な名水も存在する。

 いや、名水の湧くところに酒造りが集ったというのが正しい。豊富な雨量と豊かな森、山、溶岩石に火山灰、水はけの良い大地の層。レクチャーを受けるとそれはまるでたいそうな浄水器のフィルター断面のようだ。水源でコンコンと湧き出る水を頂いた後に出来上がった焼酎を呑むと、あの水の美味さを舌がまたはっきりと思い出す。

 

 芋焼酎の基本的な工程を簡単に略すと、蒸した芋と、米麹+酵母によって発生したアルコールを合わせて発酵させ、蒸留し、その原酒を水(地下から湧き出る銘水)で割るという、いたってシンプルなものだが、その原始的な原料や工程がわかると、なんと見事に地域性が体現された無理のない商品であるか、しみじみ分かる。昨今、ブランディングとか、商品コンセプトとかいう文言が並び過ぎて食傷気味だが、人間の営みに寄り添った産物とは、この地に限らずいずれの地方も、あるいは世界中のどこの地域にも、それぞれに長い長い歴史に培った自然サイクルの元で、そう気負わず声高に叫ばず、ごく自然の振る舞いの一環である生きる糧として、無理のない範囲で地域の特産物が生み出されてきた筈だ。

 

 残念ながら、私は血気盛んな高度成長期末生まれのデフレ環境育ちな者で、このような自然と産業のサイクルを目の当たりにすると、大変新鮮な気持ちになる。恐らく、地方の活性化をカギカッコ付きの横文字で囲った所で、地方産業の若い担い手はそう根付いてはくれないだろうけれど、これまで長きに渡り当たり前だったはずの第一次及び第二次産業と、第三次産業のバランスが悪い今、振り返れば地方からより良い働き口を求めて都会へ流れた人の中にも、本来の気質的にはそれぞれの産業種、あるいは定住の地に、個々人の心根として向き不向きというものがあるんじゃないか。逆に無理を押して自己の人間性を目の前の産業に合わすがあまり、耐えきれない程の負荷がかかってやいまいか。それぞれの人の性格に合わせた他者や時間との付き合い方、無理の無い生活の仕方、労働対価の得方のできる、本来の場所に戻っていけるなら。。。と、夢あまちゃんな事を思う。

 

 ちなみに、私の叔父はそうだった。一旦都会で就職したものの、生まれ育った故郷に戻って第一次、第二次産業に就いた。都会に憧れてと言うより、地元になかなか働き口が無かった故、それでもやはり戻ってきた。叔母はご主人と子供達の暮らしを優先して田舎を出たきり、戻れず居着く事になってしまった。一方、父は高校卒業後に京都に出たまま人生を終えた。叔父叔母とは違い、父は親の出稼ぎ先、戦前の産業革命の最中にある大阪で生まれ小学校に上がった頃、病弱な長兄を心配した親共々、空気の良い田舎に戻った経緯がある。時代的には戦争のきな臭さも漂ってきた頃だろう。結局、長兄は甲斐なく亡くなり、父はにわか長男になった。「それまで薄暗い土間で母親と弟妹で食事をして、風呂の順番まで決まってたものが、いきなり昇格して爺さんと父親の側で飯を食わされるようになった。母親は、一番最後の風呂に入って、次々子供を生まされて、朝から晩まで働いて。。。」とよく言っていた。

 田舎の長男という役目から逃れ、結婚した嫁で私の母親は根っから地元京都人。家事育児の向かない人で、とは言え働く人でも無かったが、故郷の母の姿に重ならないのがよかったんだろう。しかしどちらも一緒に呑めば悪酔する酒のようなもので、うまくいきようが無かった。

 今、叔父さんらは、しっかり者の地元のお嫁さんと子供や孫に囲まれ幸福そうだ。若い頃のお嫁さん達はきっと甲斐甲斐しかったろうけど、今では思う所を切れ味よく言うようになって、現役で働いて、自然と立場が逆転している。一方の叔母さんたちは故郷から遠く離れた地でも持ち前の逞しさで乗り越え、目の前の我が子供達の幸せに触れて喜んでいる。しかし、たまの羽伸ばしに地元に帰ると、墓を参って親に手を合わせ、謝りながら泣いている。

 私の父はどちらつかずだったが、晩年は生来の繊細さが覆いかぶさって、ひたすら地元を懐かしんだり人生を振り返っては深酒していた。そんな私はさながら混合酒。とっつきの珍しさと口当たりは良いが、あんまり呑むと二日酔いも重い。厄介なブレンドに育ったものだ。

 

 横道に逸れたので軌道修正。

 

 焼酎の杜氏さんが、面白いことを言っていた。

 「かのロマネ・コンティは、そもそもで葡萄畑の名称をそのままつけたものですが、ワインの工程については、今時言われるような企業秘密、情報漏えいなんてやかましい事は一切無し、原料から製造工程から何もかも、請われれば全て外部に教えてくれるそうです。しかし、その全てを丸ごと真似ても、決して誰にもロマネ・コンティは作れない。そこで某アメリカのワインメーカーが、全米の地質調査を科学的に行って、ロマネ・コンティの葡萄畑と地質が極めて似ている場所を探し当てて、そこで葡萄を育て、ワインを作ってみた。けれどやはり、ロマネ・コンティは作れなかった、というお話があります。土だけじゃない、気候風土や、長年の歴史と経験、育まれた知恵も一体で無い限り、同じものは決して造れないという事でしょう」。

 

 沖縄や九州地方では、我々が今年被った珍しいほどの自然災害の影響を、毎年複数回に及んで必ず見舞われている。慣れず、抗わず、また諦めず。自然は恐れ多いものだが、謙虚な姿勢で耳を澄まし、知恵を授かれば、一方で豊かさももたらしてくれることを、彼の地の人々はみんな知っている。知った上で、その恩恵をまた、感謝をもって自然に還すことにも営みの中で当たり前として行われている。

 

 残念ながら時間の関係で、今回は鹿児島国分にある父の実家とその墓には立ち寄れなかった。

 だから、遠く桜島を望んだ際、ご無礼と日々の感謝を込めてそっと手を合わせてみた。そんな時にいつも思い出すのは、自然の神様にお祈りする際の、鹿児島の叔父さんや叔母さんたちの姿勢だ。こうべを垂れるのも、拍を打つのも、常日頃のこととして、全ての動作がとても自然で美しい。普段慣れない私など、ついつい揉み手でお願い事ばかりしそうになるから、姿が非常にぎこちなくて恥ずかしくなる。

 

 いま少し、自然の厳しさやおおらかさに身を添えれば、心根も素直に謙虚になれるかな。自然に還元出来るように、なれるかな。


お口直しに。素敵な旅のおまけ。

 道行きの最中にお出会いした若いお兄さんから、「(鹿児島の)何処へ行かれました?」と尋ねられたので、「空港から霧島方面に向かう最中、古い駅舎に寄って。。。」と答えると、かぶせ気味に「嘉例川駅ですね?!えらい渋いなあ」と驚かれて、「僕、住んでるのそのあたりなんです。今日も朝からボランティアで駅の周りの草むしりしてました。今日は平日だし残念ですね、土日祝だけ販売される駅弁が有名なんです。それから、メイドさんも駅舎に居るんですよ〜」と続けざまに。

 こちらも驚いて、「駅長猫も居るみたいですけど、なんだか夏バテおやすみ中と書かれてて、会えませんでした」と言うと、「あれ?今日の午前中は居たんですけどね。」とのこと。スマホの画像をあれこれ見せて頂きながら、名物にゃん太郎ちゃんの写真を眺めてニヤニヤしました。
 で、諸々あんまり可愛いので、『全国メイド図館』さんによる撮影の、お写真を以下お借りしました。

 ちなみに「全国メイド図館」さんとは、「単にメイドさんの良さを全国の方に知ってもらいたいという活動する団体で、当初「図鑑」という文字を検討しましたが、写真などが図書館みたいに豊富になればいいな・・・図書館ではちょっとあれだし図鑑だと堅苦しいし、足して割ってこの字になりました。」との趣旨が名前の由来だそうです。

 ちなみに、写真にあるメイドさんたちは「薩摩おごじょメイド」。鹿児島県内出身者の女性で構成されていて、県内の観光地PR活動を主体にしておられるとの事。

 あんまり下調べ無しに行ったのですが、嘉例川駅とは、1903年(明治36年)に営業を開始した築100年以上のレトロな木造駅舎の事。勿論、現役駅舎で、登録有形文化財に登録されています。JR九州主催の「九州の駅弁ランキング」で3年連続1位に輝いた「百年の旅物語かれい川」が駅弁の正式名称(土日祝日に駅舎内で販売)。私の行った時には大変牧歌的な集落にひっそり佇む駅という感じでしたが、意外にも電車の本数は多かったです。あれこれ地元の若い人たち、皆さん工夫されての現役キープ。ユニークですよね。お借りした写真でも、そのイキイキぶりが伝わると思います。良い写真!
 出会った人々にお話聞きながら、あちこち巡るって本当に、良いものだなとつくづく。残念ながら、駅弁も食べてないし、メイドさんにも、にゃん太郎にも会えてないので、また、次訪れる楽しみが増えてしまいました。

 

薩摩おごじょメイドさん及び全国メイド図館さんの詳細リンク先はこちらhttps://alljapanmaid.jimdo.com/鹿児島観光pr/

 

上記写真群の撮影(C)全国メイド図館

谷口菜穂子写真事務所
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