蛍の光。日本の光。


 

 時々、欧米人の友人らに言われる。

 「日本人の家は明るすぎる。どうして日本人は家に帰ってまでオフィス照明(蛍光灯、あるいはフラットライト全般)をつけるんだ?」。

 それなりの持論があるが、そう質問される度に私は言葉を濁してしまう。「理解出来ない」とただ不思議そうな表情を浮かべる欧米人の彼らに、伝えられるだけの言葉の能力があったところで、彼らの腑に落ちるだろうか。

 そうしていると、彼らが続ける言葉はおおよそこうだ。

「昔の日本家屋って陰影がとてもあって、明かり取りの窓も、和紙も障子も簾も、蝋燭も。。。光に対する日本人の感性って、繊細で素晴らしかったのにね」。

 住空間における照明器具の選択が多々ある昨今において、蛍光灯はまさしく、戦後昭和の明かりと言えるだろう。

その明かりの下で暮らす、ある年齢以上の方(戦争体験者世代)となるともうご高齢だから、目が悪くなって明るく無いと心もとないだろうと一般には思われがちだが、その中でも、家の明かりは電球ではなく蛍光灯を選択するのに、切実な理由を述べられる方が確かにおられる。

 「特に裸電球がぶら下がったのを見ると堪らない。戦時中や戦後間なしの頃が思い出されて辛くなる。暗い空間を見ると、あの頃が蘇ってくる」。

 よもや、今流行りのカフェ空間等にありがちな、薄暗い裸電球やランプが居間にぶら下がっている光景に出くわすと、戦時中のトラウマが蘇ってくる世代がおられる事を、我々世代はよく分かってはいない。

 遡ること70年余り。戦時中は「灯火管制」と言って、電灯や蝋燭などの使用を制限することが強いられたそうだ。夜間空襲や夜間砲撃などの目標になる事を防ぐ目的にて、窓を塞いだり、照明の笠に黒い布など覆いを被せたりして対応する。特に警戒警報発令中には厳重に灯火が監視され、各家庭の座敷はその隅に深い闇が落ちた。少しでも光が外に漏れていると、町内の防護団の見回りに強く叱責される。

 家の明かり一つで周囲から非国民の扱いを受ける恐れにおののき、部屋を照らす小さな小さな光の輪の中、不安を募らせながら家族身を寄せ合う夜。空襲に恐れ、敵に恐れ、闇に恐れ、そして世間に恐れながら生きるしか無い時代があった。

 その後、戦争が終わって生き延びた人たちは空襲から、そして灯火管制からも解放され、明るい夜を迎えた。けれど、それはあくまでも束の間の「明るい夜」にしか過ぎなかった。焼け落ちた日本に物資は無く、満たされない国民の飢えは続いた。大元である電力事情も全く解消されては無かった。「ローソク送電」と言われたそれは、一定時間になると各家庭の電灯はすうっと暗くなって蝋燭ほどの明るさに落ちてしまい、引き続き暗い夜を過ごさなければならなかった。

 これら体験者の貴重なお話をお聞かせいただいても、我々世代のようにその時代を体験した事のない人間に、どれだけ戦中戦後を生きた人たちの、実は想像を絶する深い心の闇を、我が身のこととして感じ入れられるだろうか。近所のおじいさん、おばあさんどころか、実の祖父母や実の親ですら、その心痛を我々は共有出来てはいない。

 日本における蛍光灯普及の歴史を少し調べてみる。

 ちなみに、蛍光灯を発明したのはドイツ人発明家。1926年の事で、和暦で言えば昭和元年にあたる。しかしこれが実用化に向けて販売されるようになったのは1937年の事で、日本でも蛍光灯ランプは1940年代に発売された。が、日本国内で一般家庭に広く普及したのは1970年代であり、60年代はまだ、白熱電球の普及率の方が高かったそうだ。

 当時、隅々の闇まで明るく照らす蛍光灯は、明るい日本を照らす象徴だったろう。

 ちなみに、日本において当初目的である工業用、産業用電源を安価かつ安定的に供給する事を目的として導入・検討された原子力発電は、サンフランシスコ講和条約が発効された、終戦から7年目の1952年(昭和27年)に原子力に関する研究が解禁され、翌々年には原子力研究開発予算が国会に提出された事を起点とする。その翌年には原子力基本法が成立し、明くる翌年には原子力委員会が設置された。実際の開発出発点はアメリカより導入された動力試験炉で1963年に運転開始、次いでイギリスから導入した東海発電所が1966年に営業開始して日本初の商業原子力発電所が幕を開ける。1970年11月に福井県に関西電力美浜発電所、そして翌年には東京電力福島第一と相次いで商業原子力発電が本格化した。

 今では、福島での甚大なる原発事故においてようやく、広く一般的に、それはともすれば極めて危うく、決してこれまで言われていた安全かつエコなものでは無いんだというイメージも多少なり定着したかに見える原子力発電も、一方では明るい日本を安定的に照らす希望の光の原動力として貢献した、その時代に符合する。

 ここでいきなり小さな個の日常話になるが、71年生まれの私にとって、物心つく以前から家を照らすのは勿論「蛍光灯」だった。どこもかしこも蛍光灯で、せいぜいトイレくらいが電球だったと記憶する。

 家の照明器具を選ぶのは勿論、昭和一桁生まれの父親で、度々の引越しにもまた、新たな蛍光灯が加えられた。正直な話、私はあまり蛍光灯照明器具が好きではなかった。しかし子供の頃の理由は単純で、その光質が嫌だったのでは無く、言いつけられる掃除の度に取り組まねばならない面倒な構造が嫌だった。掃除上手な兄はいつも重苦しい蛍光灯照明を丁寧に外して古新聞の上に置き、バラして一つ一つ雑巾で几帳面に磨き上げる。横目でいる大ざっぱで力足らずの私には、トイレの電球磨きの方が性に向いていた。

 その後、生活の中の明かりというものに本質的な関心を持つようになったのは10代後半以降である。外国人の友人や、仕事関係で出入りするようになったクリエイター業の方らの、オフィスや自宅での場面転換における照明器具へのこだわりに触れる機会が多くなった。アシスタントに就いた広告写真家の師匠は、「カメラマンはライティング(照明技術)のプロである」と常々断言し、最初は意味が解らなかった。夜通しの撮影でもライティングに一切妥協しない師匠にはうんざりしたが、被写体がその光と陰の匠によってより一層美しく仕上がってゆく様は目が覚めるほど感動した。喜びも憂いも、暖かさも冷たさも、儚さも強さも、美味しいもの、瑞々しいもの。。。光の扱い方や捉え方一つで演出出来ること、逆に下手をすればその被写体自体の魅力を潰してしまうことも知った。

そんな日々の中でだんだんと、なんでも見えてしまうが物質の質感も陰影も情景もフラットに消してしまう、どこもかしこも蛍光灯である情緒の無い日常に、心の落ち着きが得られなくなってしまった。

 だから、世代からくる価値観の相違した、親主導の生活構成から一人暮らしをするようになってようやく、自由に光の選択を得られるようになったのは、少なからず喜びでもあった。親世代の抱えるトラウマ、思い込みや価値観から解放されたというか、そんなささやかな喜びのような。

 先の話からすれば、実にのほほんと平和なお話であるが。

 現代において、巷ではいろんな(とはいえ、省エネを謳うLEDの出現によって光源自体はより選択が狭まったとも言えるが)明かりの選択肢が広がった。安価なインテリアが売りの大手家具店でも、割にオシャレな照明器具が売られている。飲食店などのお店は勿論、各家庭でも照明器具をアクセントとした空間づくりにこだわる人がとても多くなり、素敵な実用例も身近で見られるようになった。

 が、そんな時代になって、光の質を変える事で場面の転換を図れることに身近に触れていながら、一方では驚くほど、未だ若い世代にも自室にはフラットライトを明々とつける人、蛍光灯ライトを漠然と選択する人も多い。理由を聞くと、「暗いのはいや」という答えか、あるいは「実家がそうだから。あたりまえで、考えたこともなかった。」「親が選んだからそのまま」という、そこに大きな理由も、こだわりも無い答えが返ってくる。これが実際には、親、あるいは更に上の世代が抱えたトラウマが起点であるという仮説を唱えたなら、何をどう感じるのだろう。

 勿論、照明自体にはこだわりを持って選択して生活している人も、同様に。

 話を本流に戻すとして、古い日本家屋や建造物における光に対する情緒的かつ独創的な調光の仕掛けに出会うたび、あるいは遠い過去には昼間は昼間らしさ、夜は夜らしさを感じ入る日常を送っていた筈が、一体日本人はいつから、欧米とも違う、固有の光に対する文化をさっぱりと捨ててしまったのだろうと感じることがある。

 戦後の高度成長を照らした明るすぎる光の下、私たちはすっかりと、光、あるいは闇の存在も、そしてその向こう側で実は輪郭のある意味も、感じることも見極めることもやめてしまった。

 親やそのさらに上の世代が物事の主流にいて、家庭の中、社会の中、経済あるいは政治において多くの決定権を握っていた時代には、家の照明器具を選ぶことも、ひいては電力の安定供給を謳う原子力も、それらを選択するには彼らなりの確固たる理由が、あった、とは言える。そして被爆国でありながらにして、今度は落とした側の「平和のための原子力」などと言う、上げ調子で謳われる魔法のようなフレーズを妄信せざるを得ない精神的背景が、あったという事も。煽動したい側の狙いがあったとして、その夢のような物語に近視眼にならざるを得ない弱味もしかり。

 けれどその後に続く我々世代においては、エネルギー源に対する環境への優位性を謳う宣伝文句にただ了承し、消費電力を目で追う位がせいぜいで、実際にはその経緯も、こだわりも、また理由や必然性も明確に見出すことは出来ないはずだ。

 このように、一つ大きくクローズアップして「光」について取り上げてみたものの、戦前迄の歴史文化を重ねても今やトレース不可能なほど、社会のニーズや潮目に応じて緩やかに変化を遂げたのでは無く、まさに白が黒、黒が白に変わったごとく、まるきり変貌してしまわざるを得なかった時代、過去を振り返らず、全てをかなぐり捨てて新たを取り入れることにのみ注力を注いできた時代の変わり目が確かにあった。戦後復興から急加速の繁栄に向けては、例え大なり小なりの犠牲を伴っても、それは豊かな生活と明るい未来を手に入れるために必要であると光を乞う、一方で多勢の暗い現状があったのだ。

 そしてその理由をはっきりと示せる世代もだんだんに少なくなって、我々はその意味を深掘りせず、物心がつく以前から既に決まっていた路線に乗っかったまま、時間を伸ばして生きている観もある。その完成形が、延長線上の80年代バブル期とするなら、あの滑稽で虚無な時代にはまた、豊かさを誇示できた我が身を今だに懐かしむ人も多くいて、相互理解どころかの果てしなさには途方にくれそうになる。

 今しがた、「大なり小なりの犠牲を伴う」という表現を使ったが、この「犠牲」という言葉も実は恐ろしい。これはよく、物事を大きく変える際に下々へ決断を促す場面であらゆるトップに立つ人らが使い、また「少なからずの犠牲を伴うことで全体が良くなるなら」と、申し訳無いと思いつつ、結果的には選択する際に我々がよく使うフレーズである。

 読売新聞のコラムに、元プロ野球選手で広島原爆の被爆者でもある張本勲さんが反戦への思いを綴っていた。戦後70年を振り返り、終わらない戦争の記憶の中、「亡くなった人たちは『犠牲』じゃない。我々の身代りなんです。それを自分のことじゃないとは、思ってもらいたくない」と語られていた。確かに、「犠牲」という言葉はどこか、自分たちじゃない誰かもっと上の人たちが決めたうえでの事のような、過去性を伴いつつ当事者感覚を削いでくれる。しかしこれを「身代わり」という言葉にすれば、私、あるいは私の身近、それは誰もが直接的に強いた加担者であるという感覚が迫り、ぐっと胸が詰まる。

 結果的には我が国どころか、我が身、我が子、我が家族を守る事で精一杯だった時代を経て、いつしか我だけが繁栄・安定すれば良しとする感覚に、我々はすり替えてしまったのでは無いだろうか。

 今に続く私の命の盾、「身の代わり」となったあまりにも多くの先人らは、もしかしたら私や私に繋がる者であったのかもしれないとの自覚もせず、私では無い誰がが決め進んだ道により、過去に「伴った犠牲」の歴史。美談に仕立てる側も悲劇として非難する側も、前提として、かつてそんなことがあったんだよと、解釈の障壁を立てて。

 そうして、「忘れてはならない」との枕詞はただ、両者の念仏になる。

 「日本の光」なんてタイトルをつけてしまうと、まるでどこかの政治的プロパガンダと勘違いされそうで、注意を払いながらバランス感覚を持って問わなければならないので慎重だけど、その先に続けたい言葉にも、一層の注意力ある言葉使いでもって、問うてゆきたいと思う。

 少し感覚を滑らかに細やかに、日本の明かり事情についてそこから、あなたの身近な所に至り今一度、遡ってみたり、また振り返ってはみませんか?と。

 終戦の日。

 むやみに出歩かず、物事をじいっと考えるには適した日本の暑い夏。ご先祖様と向き合うお盆。開けた窓の外には虫の音を感じる。そんな時は薄暗い方がちょうど良い。

 

 子供の頃、放っておいた宿題の山を解くように。わずかな明かりの下にて。