近江高島の宝「バンバン」永遠あれ。


 滋賀県は湖西側。161号線を今津方面に車を走らせると、琵琶湖の湖面に白鬚神社の鳥居が見えてくる。その、わずか手前の京都寄り、国道山手側には、だだっ広い駐車場にポツンと立つ平屋、手描きフォントがたまらなくキュートな、県内外で知る人ぞ知る焼肉「バンバン」があった。

 過去形で話すのは、つい、この7月終わりをもって、多くの方に惜しまれつつも、34年の歴史を閉じられたからである。

 私が「バンバン」に心から思いを寄せるのは、採算度外視厚めのお肉やホルモンが最高に美味いのは言うまでもないが、昭和生まれの平成育ちに関わらず、昭和の香りのみを思いきり充満させた佇まいと、店主であるお母さんが、写真専門学校で以前、講師をしていた頃の、教え子のお母さんであるが故である。

 多くの県民の方にとって自慢のお店に違いないのと同様、私にとっても県内で最もオススメ店の一つ。バンバンの話題が上がると、「よぉよぉ知ってる子のお家のお店やねん」と吹聴したものだった。勿論、腹の底から自慢である。

 

 「一見さんお断り」なんてまさかの事、敷居は限りなく低いどころか地続き並みのバリアフリーにも関わらず、知らねば入店するのに若干の勇気が必要とされる出で立ち。外観からは小さそうに見えるお店だが、一歩足を踏み入れると、テーブル席、小上がり、奥にちょっとした団体でも入れる座敷もあった。

 無煙ロースターなんてものは存在しない。各テーブルにはガス火の焼肉ロースターがあって、座高の低い小さな子供は目が沁みて泣きそうな、もくもくの煙の中、焼肉を食す。

 肉汁は飛び散り、壁も柱も机も何も、至る所がキトキトだ。しかし、その油はどうしようもなく古いものじゃ無いのは触れた指先で分かる。なにせ、換気ダクトが今風に無いから店内は常に焼肉ミスト状態。恐らく毎日、拭いても拭いても油が無限に堆積する。お陰で、帰る頃には髪の毛一本一本、身体中、着てる服からカバンから、何もかもがバンバンに燻された。

 お店も自分も隣の見知らぬお客も、なんだろうこの聖なる一体感。みんな一緒だ怖くない。

 「そうだ私はたった今、肉をたらふく食らったのだ!」。いっそこの際は歓喜に変えて、腰に手でも当てたくなる。

 

 店内の手書きメニュー札は、とことん安くて胃袋を掴むアラカルトが、焼肉屋の範疇を超えて定食屋並みに存在する。

 注文するのに壁に目をやると、否応無しに視界に飛び込んでくる、金髪ボイン姉さん絵画が鎮座。多分、男子が回し読みの配慮に置いていくのか、ちょっぴりエッチな漫画や雑誌も、こっそり。

 お店が開店してから、その評判は国道が結ぶ内陸と日本海を往来するトラック野郎の口コミに広がったとの事は、言われずとも容易に想像できる。

 女所帯のお店にして、狙ったわけでも無い、天然で男目線。まるで、体育会系男子部活の御用達食堂か、昭和映画に登場する役者達の控える、大部屋のような雰囲気。

 ただ、そうした猥雑なものも、店のあちこちに佇む、ご贔屓さんからの貰い物だろう、全く統一感の無い地方土産のオブジェたちも、全ては焼肉の煙で渾然一体。飾り気も、洒落っ気も、変な馴れ馴れしさも媚びた所もまるで無いが、要するにその分、良心価格のとびきり美味しいお肉に反映、全てがこのお店のイズム、「バンバン」を象徴していた。

 

 いつ行っても、エプロン姿のお母さん達は慌ただしく、挨拶もそこそこ、各テーブルの注文に応じて、サンダルの音をひっきりなしにパタパタと店内に響かせていた。愛嬌、愛想で売る訳じゃ無い。ただただ一生懸命のお店。

 その働く姿に、写真を勉強しにきた筈の教え子にも関わらず、「バンバンは継がなあかんで。絶やしたらあかんで。もう今から弟子入りした方がええんちゃうか」と、つい、言ってしまう。ここはお母さん達の真剣勝負の戦場。向かうは肉を求めて今か今かと待ち構えるお客。君はこのテンポについて行けるか。写真スタジオ並みに、師匠の動きの先を読む、阿吽のサポート能力が求められそうだ。

 「焼肉食べたいな」モードに、「ほな『バンバン』行こうや!」は、肉を欲する気概に直結する優れたネーミングだとあらためて思う。しかし、勇んで着いた先はほっこり抜けのある昭和ローカル空間にて、されど地方にありがちな国道沿いの、時代に取り残されたような出で立ちの名物ラーメン屋とも、定食屋とも居酒屋とも、何かがちょっとづつ違う。何故だろう。

 たまに仕事や何かで夜遅くに161号線を通りがかると、もうお店はとうに閉まった時間と言うのに、駐車場には何台も、大きなトラックが停まっているのを見かけた事がある。どうやらここで食事を済ませた後に、仮眠を取る長距離ドライバーさんが休んでるそうだ。だから駐車場はいつもあけすけで、閉店中も非情なチェーンはかけられていない。一方、小さな子供ら、家族連れで一緒に店に行くと、ドタバタの中でもお母さんは、子供達が食べられそうな、ふんわり美味しい卵焼きなどをささっと焼いてくれたりする。ご飯は「まんが日本昔ばなし」盛りがデフォルト。みんなみんな、たくさん食べて、よく寝て、元気に育って。

 そう。全ての要素は必然。

 目に見える空気は常に靄がかってはいるが、老若男女、コアなファンから地域の常連さん、通りすがりの旅人まで門戸を開いた、実は風通しの良い焼肉「バンバン」は、立地と店側の気質によって絶妙のバランスで成り立っていた。そしてその最大の魅力は、男所帯のお商売にはけっして真似出来ない、母性ならではの、あまりにさり気無く優しい眼差しが、実は静かに静かに行き渡っているところにあった。

 

 多くの人に愛され、親しまれた「バンバン」が閉店すると知ったのは、昭和を飛び越え平成ももうすぐ終わる今の時代らしい、SNS上で噂が飛んで、それを見た友達から真偽を尋ねられた事による。

 すぐさま教え子に連絡をとると、それは本当の話で、自分たちもつい最近母から聞いて驚いて、どうみんなに伝えるべきか悩んでいた所だったと返事があった。当のお母さんですらあまりに突然の事で、心配するだろう家族に打ち明けられず、しばらくの間、黙して語らない日々を過ごされたそうだ。

 曰く、この場所で新たにコンビニ経営がしたいと言う人が現れて、飛び越えて地主と交渉し、店主であるお母さんの許可も合意形成も全く取らずに、進められてしまった話。要するに事後報告。いついつまでに立ち退いてくれ。と。

 「母らも確かに、年齢も年齢だし、これから働き方をもう少し考えなきゃね、と言う時期ではあった。けど、まさか自分たちが辞めると決めた訳じゃなく、こんな形で突然、さよならしなきゃならないなんて。。。」そう、娘は言った。

 薄利多売ながらも順調経営、まして地元が誇る名店が、何故ゆえありきたりのコンビニに成り変わらなければならないのだろう。

 

 背景は違えど、名物食堂がコンビニになる、と言う話は、他でも最近身近な所で起こっていた。

 私のかつて通った高校には、もう半世紀ほど、同じご家族が二代に渡り引き継いだ学生食堂があった。まさに長年に渡り、母校の同窓生や教員の胃袋を支えた名物食堂である。

 ところがこの度、昭和初期建築の老朽化したとされる校舎改築事業に伴い、教育行政の新たな方針により、現行食堂を撤廃し、公立高校では初?とされるコンビニを校内に併設すると言う話が持ち上がった。

 有志はもちろんで反対運動を行った。在校生による現行食堂存続を求める署名は、全体の8割が実名を書き連ねた。保護者や卒業生、元教員、府民などの一般署名も6600筆を超えた。ニュースにも取り上げられた。しかし、食堂のコンビニ化は「時代の進化」と言う彼らなりの持論で、行政側は計画実行を押し切ってしまった。

 こちら、学生食堂の閉店も同じく、この7月いっぱいであった。

 「どうしてコンビニはダメなのか」について「言わずもがな」ではいけない。理解を深めるべく、双方の中でもしっかりと何故の理由を言葉に落とし込み、対する側の言い分を咀嚼する必要がある筈だった。

 在校生どころか歴代の卒業生まで訪れる、先生や親とはまた違った存在が魅力の店主による、安くて量もメニューも豊富、冷凍加工品やインスタント活用は一切無し、全て手作りが信条の学生食堂よりも、今後は給食センター企業が運営する「安定供給」かつ「安心安全」な、コンビニ弁当及びコンビニ菓子が望ましく素晴らしいと、言い切る教育者。

 誰のため、何のため、誰が望んだのか分からないものが形を成す不可思議さに、根本的な価値観すら互いに共有出来ない、不毛の押し問答。

 「食べること」と言う基本的なテーマを前にして、諦めの境地に至るのは豊かさに程遠く、とても貧しい話に思えた。

 

 先日、親の故郷に行った。

 叔母は実家近くの小さな集落を案内しつつ、通りすがりに挨拶を交わす自分の同級生を紹介する際、「ここのお家は昔、よろず屋さんやっててな。うちは貧乏百姓で収穫時期しか現金が無くて、それでも飲んべえのお父さんは毎晩晩酌するから、あんたのお婆ちゃんで私らのお母さんがな、ツケで買い物させて貰ったんよ。お酒も量り売りでね。毎日毎日の事で、惨めな話やのに、友達は全然、学校で何事も無いように友達でいてくれて。私ら家族の、ほんま命の恩人よ」と、教えて貰った。

 よろず屋とは、今風に言えばコンビニになろうか。自家用車など遥か夢の時代。田畠とわずかな人家、街の中心地はあまりに遠い集落に、貧しく倹しい地域の人たちの生活を支えた、小さな命の灯。

 私はこの話を聞きながら、しかしながら現代のコンビニに、このような地域のコミュニティ形成を担い、人の思いが紡がれる文化的なもの、あるいはあたたかな人間臭い存在になり得るのか。叔母の話を聞きながら、つい、思わずにいられなかった。

 

 果たして、今やそこら中に乱立して飽和状態の、揺るがし難い中央フォーマットに縛られ、それぞれの個性など発揮する余地も無いコンビニがある日突然閉店されたとして、例えば泣きたくなるほど、惜しい気持ちに至るだろうか。

 私個人、すべてのコンビニアンチではまさか無い。街明かりも僅かな夜の国道を車で走れば、その存在に助けられる事もしばしばある。福利厚生の乏しい会社の側にあるコンビニも、あるいは大型店に押されて次々とシャッターが閉ざされてゆく商店街に成り代わり、ご近所のお年寄りが歩いてちょっとした買い物の出来るコンビニも、確かにその存在にはありがたく思う方も多いだろう。

 しかし長年に渡り、地域と寄り添い続け、遠方からもわざわざ目指してやって来られるような特色や地位をしっかり育み保たれている、かけがえのないお店が今すでにあるのに、そうしたものを強引に退けて、成り代わるべき存在なのか。それがいったい進化なのか?

 新しく生まれ変わったものも、いずれ早かれ遅かれ古さを纏ってしまう。

 その古さが必要とされるか否か、その真価については自然のふるいに任せて、歴史の先に残れるか、残れないか、いずれ消費者の立場にあるのが我々人間とするならば、判断力も先見の明もその価値観も、全知全能では無いことの謙虚さを持って、大事に見守ることは出来ないだろうか。思い出の過去をただ未来へ押し付けているのでは無いと、ひたむきな努力を繋げる人に対し、あるいは、一見は特別じゃない、日常生活の中にも育まれるべき文化に対し、多様な価値観はおろか定義すら紐解かないまま短絡的な結論を下してはいないだろうか。

 

 過剰の一途を辿る「便利さ」を過保護なまでに提供されて、匂い、味、温もり、想像に伴う懐かしい気持ち、作り手への親しみや感謝まで退化させて、これ以上、ただただ消費し続けたくは無い。

 

 せめてバンバンの記憶を残すため、ささやかながらも写真を撮り、今更ながらバンバンの生い立ちを聞くことにした。

 開業は昭和59年の事。教え子のお母さんのお父さん、つまりおじいちゃんがリタイア後にやろうとしたのが、このお店だったそうだ。

 ところが肝心のお父さんはまだ50代にして、突然の病気でこの世を去ってしまった。開業からまだわずか2年にも満たなかった。そこで、お母さんがそのバトンを引き継いで、当時のパートさんと二人で経営を担った。

 年齢を振り返れば、教え子である長女はまだ幼稚園通い、その下に妹ふたり。組織に属して福利厚生、産休、育休云々に守られる訳も無い。お母さんは、実に3人の子供を生みながらそして育てながら、バンバンを営業していた事になる。

 お父さんの亡くなった数年後からは、娘であるお母さんを店主に、実の妹さんも参加する形になり、今日までバンバンを続けられた。聞けば姉妹二人とも、それまでお商売は全くの素人だったそうだ。

 教え子が写真学校に勉強しにきていた頃、何気に「家族の晩御飯って、みんなどうしてるの?まさか毎日焼肉じゃないもんね。」と尋ねた事がある。「お母さんが夕方のアイドルタイムに店から帰ってきて、家族の食事の支度をして、またバンバンに戻って夜の営業してる」。これが毎日、朝から晩までの事だ。それだけ聞いても、凄いなあと思っていた。お家には年老いたおばあちゃんもおられた。ご主人はご健在でおられた。お母さんが稼ぎ頭でなければならない様には、見えなかった。

 お母さんのエネルギーって、その原動力は一体何なんだろう。不思議だった。

 確かに働き者気質には見えたが、いわゆる女性経営者に居がちなイケイケ感もガツガツ感も、カケラどころか微塵もなく、言えばごく普通の、どちらか言えばシャイで人見知り、小柄で控えめで、ただひたすら優しそうなお母さんだったから。

 

 今は写真の世界からは遠く離れ、実母と同じく3人の子供を持つお母さんになった教え子。小さな子供を抱えてそれだけで精一杯の毎日に、「その上お店までやって。給料出して、仕入れして、お店まわして。。。子供の頃は、お母さんに悪い口を叩いた事もあったけど、ほんまに凄い事と思う。お母さんにはかなわない」と彼女は言う。

 子供の頃は、お母さんがいつも側にいなくて寂しい気持ちもあったろう。女の子だから、年頃にはちょっとばかり、難しい気持ちになった事もあったかもしれない。

 しかし、彼女なりに最後のバンバンの思い出として撮った写真群を見せてもらったら、お母さんの背中をちゃんと見て育った、実の親子であればこその眼差しに満ちた写真がいくつも存在し、それは見る側のこちらの胸を打った。

 鍋底が長年の使用で真っ黒になりつつも、大事に使われていた雪平鍋に目をやる。逆光の中、冬は寒く、夏は暑くてたまらなかったろう泣きたいような灰色の厨房土間に目をやる。客側の空間とは対照的に、ピカピカに磨き上げた清潔な調理器具に目をやる。毎日の油と匂いにまみれた体を家に持ち帰らないためだろう、更に奥にあったとは知らなかった風呂場に目をやる。厨房の片隅に置かれた、小さな額に収まった男性のポートレイトに目をやる。。。

 「これ、もしかしておじいちゃん?」「そう!めちゃ男前やねん」。彼女は言った。

 高島が誇る大溝祭の曳山を背に、スーツにベスト姿の品のある、穏やかそうなおじいちゃんが、実はずうっと、厨房の片隅で見守っておられた。

 これらを見たときに、私には全ての謎が解けた気がした。このお店は、父と娘の、約束のお店。形見のお店。子が亡き親に誓い、そして果たした、大事な大事なお店だったのだ。

 そうして積み上げた日々の中で、通りすがりのお客さん、常連さん、地域、従業員さんに対し、やりがいと責任も積み重なった。雪深い湖北の冬の時期も、窓辺に見える涼しげな夏の琵琶湖に目をくれる暇も無く。毎日毎日。朝から晩まで何十年も。立派に果たし続けておられたのだ。

 孫娘が写した写真の全てで、私にはこの店の一体何が、唯一無二であったのかを思い知ることが出来た。家族だからこそ、何より、親を思う子でなければ撮れる(見つめる)筈のない写真群に。

 素晴らしい。。。(よって私の写真などは、記録ではあっても記憶にはならない、そのおまけにすらならない事をここで心よりお詫びしたく思う。)

 

 本当に、ごくごく普通のお母さんが、ただただ一生懸命、守り続けてきたお店。

 このような形で不本意ながらもさよならしてしまうのは、本当に心苦しく、大変悲しいお話である。

 実家とお店はほど近く、閉店後も日々、通らねばならない線上を想像すれば、これからどんな思いでその店跡を目にしなきゃならないのか。当たり前の日常だった時間の使い方をいきなり断ち切られた、お母さんをはじめ、ご家族皆さんの心中を思うととても辛い。ファンだった人もみんな、161号線高島エリアの貴重な灯火を失った事に、通る度、打ちひしがれるだろう。トラック野郎の愛とスタミナは、これからどこでその源を補給されるのか。。。

 しかしこれまで長年に渡り、地元に愛され、行き交う旅人に愛され、県内でも知る人ぞ知る存在になったのは、あまりに素晴らしい話ではないだろうか。それらに応えて継続された功績を、今一度ちゃんと、まずは心から讃えたい。
 これまでの歴史には、想像を絶する、言い尽くせないご苦労もあられただろう。にも関わらず、たった一人の人間が、やれることの精一杯やって、家族どころか他者を喜ばせ、それぞれの人の腹と心を存分に満たし、みんなの中で忘れがたき存在であり続けたというのは本当に、本当に凄いことだと思う。

 これを書きつつ我が家の前の、引き継ぐ人も無く取り壊しになったお屋敷は、この夏の暑さに解体業者も一苦労で、破壊の音をもうかれこれ数週間響かせている。それを思えば、あの簡素な造りの商店を消してしまうくらい簡単な事だろう。立つ鳥の儚さはここにきてまた誰しもに優し過ぎ、されどその存在をみんなの心から消し去るのは簡単では無い。

 この閉店の噂には連日、新旧のファンらが惜しんで店をひっきりなしに訪れ、先日お会いした際のお母さんは、ずっとふっくらされていたのに、やせ細って小さい小さい、本当に、まるで小鳥のようになっておられた。その姿には心配でたまらなかったけれど、娘はきっぱり、「こんなことでへこたれないのが私の母。まだまだ、どこかで仕事するでしょう」と誇らしく言い放ってくれた。

 

 娘にはもう、聞き飽きるかもしれないけれど、ずっと言い続けてあげたい。

 お母さん。ほんまによう頑張らはったな。たくさんの人に幸せ与えた、みんな、みんなのお母さんだった。お店に行くよと声を掛ければ、あなたも店の手伝いをして、私たちの呑気な馬鹿話に耳を傾けながら、そして笑いながら、網の上で忘れそうな肉をいつも静かに、ひっくり返してくれてたよね。話が途切れた時の、返したての肉汁が放つ、あの、じゅうっじゅうううと、優しく沁みる音は絶対忘れない。きっと、どこかであの音を聞くたび、バンバンを思い出す。また、あの謎の金髪女神ネエさん共々、何処かで復活してくれたら嬉しい。ほんま、大変なことやのに、つい、口にしてしまってごめん。

 今までたくさんお世話になりました。

 お母さんのこと、ずっと裏で支えてこられたご家族皆さんにも心から、感謝を込めて。

 ありがとう。ありがとう!バンバン!

 

 

全国に数多ある、

このような家族物語をたっぷり内包した、

唯一無二の個人商店のすべてに。心からの敬意を。