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島原ノスタルジィ。

 京都は島原エリアとともに。
 4歳から小学校4年の終わりまで、このエリアの西南方角、西大路七条あたりの郵政官舎に住んでいて、島原は行動範囲の中心にあり、子供の頃よく自転車で走り回っていた。

 ちょっと離れて通っていた眼科医院は西大路四条にまだ存在する。もう低学年の頃には今の視力とさほど変わらないほど悪かったが、母親は今で言う「とんでも自然療法」主義な傾向があって、漫画とテレビと電子ゲームは頭と目を悪くすると思い込んで、一部例外の「はだしのゲン」と「野生の王国」を除いて禁止。当時高かったメガネは与えず、ひたすら病院に通わされた。看護婦さんも気の毒そうに、毎回視力検査をして点眼液を与えて終わり。学校の視力検査の結果の度に母親の鬼の形相を伺っては、なんとか結果を得るべく、見えないものをじいっと凝視する癖だけは身についた。一方、読書は賞賛されたので、子供の頃は大量の本を読んだ。島原口すぐの建物丸ごと大好きだった「下京図書館」(写真の建物。が、昭和7年築の建物は残っているがもう閉じている。)には、学校が土曜日で昼に終わると自転車で毎週通った。そう。こんな暮らしで目がよくなる訳も無く。

 島原を中心にして、もう、私が辺りを自転車コースにしていた頃には丹波口駅は高架に伴い駅は移転していたものの、大阪ガスのガスタンク(今はリサーチパーク)はまだあって、日本初の広大な京都中央市場に、西大路や五条、七条などの大きな通りがある。そう言えば、暴走族全盛期だったからよく、彼らの抗争後の旗が道端になびいていたりした。
 官舎の近くには当時まだ緩かったんだろう公害対策に、煙突からいろんな色の煙がもくもくと立つ大きな染色工場、そこから西高瀬川に垂れ流される濁り色の工場排水とその臭い。私もそうだったが友達にも喘息持ちが多かった。近くには今はもう移転したヤマトマネキン京都営業所があって、部位がばらけたマネキン群を横目に通学していた。

 子供の背丈ではとてつもなく大きく見える建造物群と、それぞれが放つ色目、島原のように、独特の雰囲気を放った細かな見所がたくさんある古い街並みが渾然一体となった場所。下京図書館で本を読み漁り、西本願寺で給食残りのパンを鳩にやり、辺りをふらふらと自転車で探索して帰る。共働きの両親に言われるおつかいは、当時から薄暗い印象だった市場周辺の商店街だ。

 時に、私の撮る写真の調子は「怨念写真」「念写」と面白がられ、デジタルになると「どうやって補正したらそんな作風になるの?」と言われるけれど、意図してそれ風に仕立てている訳じゃ無い。強いて言うなら、「極端」がないまぜのこの辺りで子供時代を過ごした私にとって、好みの色彩構成や構図の元が、培われての今であるのは違いない。目が悪かったのでじいっと見るから、ビビットなものが飛び込んできて滲んで見える。それがむしろ、自分にとっては自然なのだ。

 さて。そんな思い出がギュッと詰まっている「島原」エリアを、同じ京都で暮らしていてもどこか避けてきたのは単純な話、記憶からかけ離れていたらどうしよう、と言うこわごわとした気持ちが故だった。祇園やなんかの花街に比べ、「角屋」や「輪違屋」さんら数軒残すのみ、廃れた、とか言う近年のガイドブックやらの言い回しも悪い。自分の琴線に触れるのもな、と、京都の専門学校で写真を教えていた頃、学生を連れ歩くことも無かった。

 が、ずっと気になっている場所があった。それは、島原にあった筈の「トルコ」(正式名称は『島原トルコ温泉』)。子供の頃のかすかな記憶では、古いどっしりした日本家屋、あるいは側に、ネオンサインに「トルコ」と書かれていて、そもそもその意味も知らない、確か国名だけどな、と、家に帰って親に聞いてみたのだけははっきり覚えている。

 父親は、「昔、赤線言うてな。。。」と「一方で青線言うのがあってな」まで、おおよそ、子供騙しな回答で無く、どう言うものかを教えてくれた。まあ、あんまりよく分からなかったけれど、要するに、夏休みの海水浴に日本海へ行く最中に通る、滋賀の「雄琴」みたいなものなんだな、と言うのだけは分かった。それから、名称がトルコからソープランドというものに変わって、しばらくの違和感と共に、あの島原のトルコはどうなったんやろなと思い出したりした。いや、そもそもで私の見ていた頃も、営業していたのかは謎であるが。

 のちに調べて見ると「雄琴」の歴史は、風営法がより厳しくなった京都にあって、これからはモータリゼーションとばかり、郊外へマイカーで乗り付ける風俗街として、元々古くからの温泉街のすぐそばの田園地帯に、京都でトルコ営業をしていたところがゴゾって移設したのが始まりなんだそうだ。雄琴に最初のトルコが出来たのが1971年で私の生まれた年。当時、島原トルコは何故、動かなかったんだろうと勝手な感慨深い気持ちになる。
 さて、長きに渡って訪れなかった島原だが、ちょっと自分の記憶力を試してみたくなった。あの島原トルコは一体、どこにあったろうか、と言うことである。細々と営業されてる和菓子屋さんや豆腐屋さんなどに立ち寄りつつ、「小学校4年生以来に来ました」と、一眼カメラにバックパック姿の私を見ると、郷里を遠く離れた旅行客のように扱ってくれて「どうえ?えらい変わりましたやろ」と問われる。正直、確かにマンションが沢山建って、古い町家もゲストハウスに転用されたりと変わったといえば変わったが、古いものが見直される事など決して無かった当時よりかは、まるで濡れ布巾をかけるように、失われそうなものをなんとか残そうとする気配も感じて、思ってた以上に残っているのには驚いた。これは、既にないことだけはネットで確認している(が、場所はいまいちはっきりしない)島原トルコも、何処だったかはわかるかも知れない。
 と、アンテナは「きんせ旅館」(現在はお祖母さんの代で長らく放置されていたものをお孫さんがカフェに転用した)で止まる。いや、似てる。確かにこんな建物の感じだったし、この場所辺りだった。帰って今一度家でネットで深掘りすると、どうやら、きんせ旅館の道向かいの「松栄旅館」の駐車場辺りに、それはあったらしい。

 こうなったらもう、あとは嬉しいやら懐かしいやらでギュウッと、ややこしい気持ちになって、まずは外側から、かつて子供の頃に自転車で通った道をゆっくり歩いて、誰に分かち合うわけでもない感情のまま、ロケハン的に写真を撮るしかない。いくつかの道は石畳も敷かれて、けれども観光客もあまり居ない、生活道路に地域の人々が行き交う場所。あんなに憂いでられる場所だけど、自分的にはああ本当に、まだ残っていてくれたんだと安堵した気持ちになった。

 子供の頃もあった、小さな小さな公園で、ベンチに腰掛けてタバコを吸う。
 あれもあった。これもあった。みたもの以外、そこから派生する色んな出来事を思い出す。エリアを貫く花屋町通りを西に進めば、当時4年生の終わりまで通った小学校がある。入学してから暫くは、可愛らしい古時計みたいな木造校舎だった。第二次ベビーブームに途中から大型のRC校舎に変わり、新しくなってほんの僅かだけ嬉しかったけど、すぐに木造校舎が懐かしくなったな、とか。
 ここ数年前に勢い余って、母校である高校が全面改築に揺れた際、昭和初期造元女学校校舎の保存運動なんかをやった際、同じ高校を通った兄は、「あれ(高校)残せ言うんやったら、小学校の校舎の方が、残って欲しかったわ」とボソっと言って、ああ、お兄ちゃんもそんなん思うんやと面白い気持ちになった。

 子供の頃の兄と言えば、通っていた学習塾やそろばん、習字の月謝を付近のゲームセンターで毎度使い果たしていた。兄のお目付役として親に告げ口する係を命じられるものの、言えば言ったで親に怒られ兄に怒られと不条理な役割である。薄暗いゲームセンターの奥でインベーダーゲームの猛者だった兄の姿を見るたびブルーになって、浮かない顔をしてまた親にバレる、兄に小突かれるの繰り返し。現在兄は、彼が生まれて小学校に上がる前まで育った場所、有名寺院に囲まれた風光明媚な岡崎を拠点とする造園会社で、庭師をしている。寡黙で、唯一の楽しみがパチンコの兄。
 結局、人は元の根っこが繋がっていて、そうなるべく成り立っている。

 と、言う訳で。このエリアには今後の宿題と、そしてまた何度も訪れるべく楽しみが増えた。
 今日のおやつは島原の商店街にある「伊藤軒老舗」さん。中でももう、これは病みつきになりそうなのが「クリームチーズ大福」である。
 餅に包んだアンコの中心は、絶妙の量のクリームチーズが。このエリアの五条を渡って北側にあるパン屋さんの名物「あんバタ」にはまり続けてもう何年、だが、アンコに絡む酸味に塩気、そして異なる甘みのクリームチーズには最高にやられてしまった。
 生きた遺産、と言われる昨今であるがその通り、私にとっては、姿だけ残っていても、触れられないような形で恭しく残っていても、それはちょっと、違うと思う。名のある、由緒ある、誰か有名な人が建てたから、なんて理由が見当たらなくとも、そこで長年に渡る生活と必然の様式があって、形だけじゃなく匂いもあって、空気もあって、何かがとても美味しくて、そしてほんの少しばかり辛くって、過去から現在まで、なだらかにその土地の生きた足跡が垣間見られる、そんな感じはとてもいいなと思う。下手をすれば、最も有名どころだけを申し訳程度に残されて、ある種の石碑扱いで街のアイコン化にされてしまう。そして、過去にあったことについて、まるで何事も無かったかのように、あるいは過去を無駄に美化されるのも、またはいつ何時も汚れちゃいませんでしたよ、なんて風にされるのは実に抵抗がある。何故なら今というものは、断絶しようのない過去によって成り立っている筈だから。

 やや後退気味。前々進々、じゃなく、色々ありましたよねよっこらしょと、重い腰をあげて、ちょっとちょっと、時代を見渡しつつも仕方なしゆっくり歩く感じに、親近感が湧く感じ。
 さて。
 ちなみにこちらの和菓子屋さん。いでたちは全くもって昭和の、京都の路地の何処にでもありそうなお店である。それでもちょっとね、ひたむきに工夫されて、伝統の銘菓と共に、今風のおやつをこしらえてられるのが、心掴まれる。
 甘みだけじゃ無くて。酸味も、塩気もあるから良いんだと。

谷口菜穂子写真事務所
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