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西郷どんと東福寺。

 お彼岸ですね。
 お墓は遠く鹿児島にあるのでそうそうお参りが出来ませんが、近所の東福寺塔頭には、雨の中も賑やかに、お墓参りされるそれぞれのご家族の様子が聞こえてきます。 

 さて。先週のお話ですが。
 仏陀釈尊が入滅されたのは2月15日。

 毎年、その旧暦である3月14日から16日まで「涅槃会」が全国のお寺で行われますが、こちら、家から歩いてすぐにある東福寺の本堂では、通常非公開としている「大涅槃図」が御開帳され、法要が執り行われます。この時期、東福寺近隣の町内はいわばご招待枠のようなものがあって、通常は有料拝観のところをいくつか、無料で拝観させて頂けるとの事で、仕事の休みが重なると、毎年ありがたく拝観させて頂いています。

 東福寺の大涅槃図は京都三大涅槃図の1つと言われ、室町時代の画聖、兆殿司(明兆)によって描かれたもので、縦約12m横約6mと大変大きな涅槃図です。さらにこちらの大涅槃図には、他の涅槃図とは違って、大変珍しい特徴として猫が描かれています。涅槃図を描く際に林から猫が筆をくわえて明兆に渡したとの言われがあるそうで、涅槃図に描き加えて貰ったのだとか。うちの茶白の猫と姿が似ているので、なんとも嬉しい気持ちになります。

 通常非公開である本堂はこの期間中特別公開されて、天井に描かれた堂本印象筆の巨大な蒼龍図も見ることが出来ます。普段、本堂は閉じられていて外側から遠く暗がりに涅槃図をかすかに見ることはできますが、毎年の涅槃会の間は本堂に入って、これらをじっくりと拝見することが出来るのです。

 かつては堂内の写真も撮る事が出来たそうですが、撮影マナーの悪い人達が増えて、今は撮影禁止になっています。大変残念なことに思いますが、涅槃図や蒼龍図の壮大さ、荘厳さ、堂内の空気感など、そうそう、どんな腕の立つ人にも、それら丸ごとを撮れる事は出来ないでしょう。ので、誰もが何をも可視化したがる今の風潮にあって、そこに実際に身をもってゆき、撮らず切り取らず我が身自体が包まれるような感覚を体感するのはまた、今や貴重な風にも思うのです。

 こちらはその本堂で配られている(300円)「花供御(はなくそ)」。元々は正月にご本尊に供えた鏡餅のお下がりを小さく刻み、焼いてあられにしたもので、これを涅槃会法要の際、参拝者の献花や供物に対するお返しとして配らたと伝えられています。

 本来、仏様への献花や供物を『花供御(はなくご)』と言いますが、『はなくご』という音とお返しのあられの見た目が似ていることから「お釈迦様の鼻クソ」と揶揄され、『花供御(はなくそ)』と呼ばれるようになったんだそうです。

 自宅から最も近いのは、東福寺境内の南側にある「六波羅門」なのですが、そこから境内に入るとまず、四角い蓮池があって、その、石橋を渡る格好になるレイアウトに「三門」(写真は昨年夏の終わりのもの)があります。

 同じ読みに「山門」がありますが、これは寺院がかつて一般的には山の上にあった事でそのお寺の門の事を指しますが、「三門」とは、「三解脱門」の略であり、「空門」「無相門」「無願門」の三境地を表しているそうです。「空」は「こだわらない」、「無相」は「比べない(比較対象しない)」、「無作」は「煩悩に捉われない」事を言い、この三つの境地に達すれば、悟りの境地に至るのだそうです。

 建築様式としては、南に面する正門に東西二つの副門から構成され、三門の楼上(東福寺の山門の二階部分はビルの5階建の高さがあるそうです)には悟りの象徴であるお釈迦様と、自らの力で修行し悟りに向かう象徴である羅漢さま、天井には極楽浄土が描かれています。現存する全国の三門の中で最古とされる東福寺の三門内部は普段は非公開ですが、毎年の涅槃会には公開されていて、楼上では解説もして頂けます。外側から見る三門は何度見ても重厚感があって確かに素晴らしいですが、堂内は更に、言葉にはとても表せない世界観が広がっているのです。薄暗がりの中に浮かぶ極楽浄土の天井画、悟りの境地にいたられたばかりの若きお釈迦様のどこか近しい姿、羅漢さまらの足元にゴツゴツと並ぶ木片は森羅万象とも五百羅漢をも表してるとも言われ、なんとも素朴であたたかみのようなものも感じます。そしてこの、三門の先にあるのが涅槃図を有する本堂というわけです。境内全体のレイアウトに、また建築群に、その壮大な宗教観を表しているのだな。。。と思うと、その存在の全ての意味や必然性まで見えてきます。

 薄暗さの中にも鮮やかに浮かび上がる、三門堂内天井に描かれた極楽浄土の中には、空を舞う「迦陵頻伽」と共に、身体は一つ、頭が二つの二頭鳥「共命鳥(くみょうちょう)」が舞っており、それを指しながら解説されていました。

 「こちらの共命鳥は、迦陵頻伽と同じく、大変美しい声を奏でる事で知られておりました。ある時、隣に憎悪の思いを抱いていた者が居る事に腹立たしく思っていた二頭鳥の片側は、その者に毒花を盛って殺してしまいます。すると、頭は二つでも、体の繋がっている共命鳥はやがて、毒が回って共に亡くなってしまうのです。これは、愚かな心は他人を傷つけ、結局は自らも傷つけるというという事、本来は一つのものであるにも関わらず、自己中心的な考え方を主張する事で共に害を被るという事を教えているのです」。

 ともすれば、それぞれの正義を振りかざして、口悪く非難、批判する事で、結果的には全体、あるいは自分自身の身をも顧みなくなっている現代の風潮、あるいは自分自身にも言えるのかもしれないと、立ち止まるような気持ちになりました。

 さて、お話の舞台を少し移動して。

 現在、ドラマでも話題の西郷隆盛にちなんだお話です。

 今や大河ドラマ「西郷どん」にてようやく、西郷隆盛という人物像が広く世に知られるようになりました。

 ちなみに、私の父は鹿児島出身です。そして鹿児島の人間なら恐らく誰しも、ずっとずっと、西郷さんにはその人柄に親しみと尊敬の念を抱いている訳ですが、幕末から明治維新における一連の流れはなんとなく理解していても、西郷さんのその時その時の立ち位置を丸ごと理解し、そして何故、そのような行動をとりつつ生涯を終えたのか、地元の人たち以外には、あまりよく理解されてはなかったんじゃないかとも思います。正義感が人一番強くてつい、人の求めに応じる姿、懸命に人に尽くし、本来はのんびりと牧歌的な暮らしを望んだろうから名誉欲が全く無く、時に人に誤解を受けながらも、どこか、かつての戦友でさえも一目を置くような人物。自分の父親にも、また叔父さんらにも、何か通じる魂があるのです。かの土地がそうさせるのか。あるいは先人たるお手本があるからなのか。。。そして、ドラマ同様それに巻き込まれつつ支える周囲の人達。これは薩摩の男に振り回されつつ下で支える我が叔母さん達にも重なります。

 と、そんな京都にいながらにしての灯台下暗し。なんと西郷さんゆかりの地がここ、東福寺内にありました。

 それは東福寺の塔頭寺院の一つで、室町時代より、薩摩藩・島津家の畿内菩提寺である「即宗院」。今回、特別公開されていました。

 この地は、西郷隆盛と、幕末期の清水寺の住職であり勤王僧・月照上人(後の安政の大獄で幕府から追われ、西郷と共に鹿児島の錦江湾で入水)が密かに倒幕の密談を交わしたとされる場所(清水寺とこの地は山側で繋がっており人目を避けて密談するのに適していたんだとか)であり、また、鳥羽・伏見の戦いにて薩摩軍がこの地に屯営し、砲列を敷いてその砲音(当時の砲弾ではせいぜい500メートル程しか届かないため、京都の街に火を放つ事無くあくまで威圧する事のみを目的としたとされる)を響かせ、勝ち戦に繋がった場所でもあるとのこと。また、お寺の奥の山道を進むと、明治維新で落命した薩摩藩士524名の名前が刻まれた、西郷による揮毫の「東征戦亡の碑」(当時苗字も無かった身分の低い武士の名も刻まれているのに、西郷さんの人柄が偲ばれるのだそうです)もありました。また、徳川家に輿入れする前に篤姫が立ち寄った場所でもあり、まさに時代のターニングポイントとなった舞台でもあります。

 お寺の母屋では、前住職の杉井玄慎さんがちょうど、団体客に説明をされていました。

 西郷さんが好んで揮毫した「敬天愛人」と、徳川家の最後の将軍である慶喜筆の掛け軸を指して比べながら、両者の、かたや人に尽くし与え続けて太く短い生涯を閉じた西郷さんと、周囲に与えられることが常で、細く長い生涯を閉じた将軍さまを振り返り、「長く太く生くべし」と聴く人を悟しながら、「きっと西郷さんは最後にニヤリと笑って死んだはず。皆さんも最後にニヤリと笑うことのできる人生を送りましょう」と説かれていました。「敬天愛人」の意味についても、「天を敬うの“天”とは人の力では抗うことのできない自然のこと。“愛”とは『LOVE』ではなく、万物・万人をいとおしむ気持ち」と述べられ、厳しい自然災害と常に隣り合わせの鹿児島の中で生きつつ、その天を敬い、与えられるのではなく常に愛し与えるという、西郷隆盛という人の大きさや慈愛の深さを説明されていました。

 それらを聞きながらふと、私はアメリカ先住民であるインディアンの古い諺を思い出しました。「あなたが生まれた時は、みんなは笑って、あなたは泣いていたでしょう。あなたが死ぬときには、あなたは笑って、みんなは泣くような生き方をしなさい」。

 また、床の間には西郷さんの筆による漢詩の掛け軸が掛けられていました。

 新たな歴史の立役者であった筈の、明治維新の舞台から引きづり降ろされ、下野した西郷さんは郷里にて温泉巡りをされていたそうですが、お金は全く無く、大変貧しい暮らしぶりだったそうです。

 その様子を見かねた勝海舟は西郷を訪ね、「漢詩を書いてくれ。それを買いたい」と申し出たそうです。日々の金に困っている友人にお金をただ手渡そうにも、そんなお金を彼はきっと受け取らないだろう。そう考えた勝海舟の、かつての宿敵であった友を思う気持ち、友の人柄やプライドを守っての策とされます。

 このエピソードに触れながら、前住職は、「皆さん、ツイッターとか、なんとか、SNS、きっとやられてますよね。でね、携帯見て、メッセージとか見て、誰やにメッセージ送ったけど、返ってこないとか、既読付いてないとか、ハラハラしますよね。そう言う表面的なもので繋がってるのが友達やとも思い込んでる。でもね、そんなので繋がって、返事があるだのないだのでイライラしたりする者同士なんて、それは友達とは言わないんです。返事があろうとなかろうと、仮に遠くとも、会えなくとも、心が繋がって、互いに思いを寄せるというのが、本当の友達なんです」と説かれました。ちょうど、互いに会えず、元気であるには感じているものの、連絡もしていない古い友達の事を思っていた所だったので、団体客の背中に紛れてボロボロ泣けてきました。「別れは死にも似たり」とは言いますが、会えずとも繋がりを感じる友情は、心の拠り所や大いなる支えになります。そして、その人たちに恥じない生き方を。。。と思いながらも、下手ばかりしている気もします。

 語り継がれるお話というものには、いろんな想像や脚色もあるかもしれません。けれどやはり、日々の中、普段気づかない所、思ってもいない身近な場所に、生きる中での大切なヒントがたくさん潜んでいます。そしてそういうお話のきっかけや引き出しに、ものの形があり、その場所が象徴的に存在するのかなと思いました。

 今、暮らす家の近くに東福寺があります。今は無き私の生家は京都岡崎の南禅寺近くでしたが、東福寺は京都五山の四位、ちなみに南禅寺は京都五山の上で、周辺環境はどことなく、似た雰囲気に満ちています。普段散歩をしてもとても心地よく、また寝ても覚めてもあの本堂の涅槃図や、三門の楼上の様子は心にあって、とても穏やかな気持ちになります。そして、図らずも、住んだことの無いながらも心の郷里である鹿児島が、またこんなに身近な場所で感じる事も出来るという訳です。

 まだまだ、いろんなお話や人、ものに触れて感動して泣いてばかり、頼りない事ですが、これらを心の支えとし、どのような人間として組み立ててゆくか。

悟りどころか、全てが遠いですね。。。苦笑。でも、希望はあるな、と、楽観もしてみたり。。。
 ともあれ。今日は手を合わせてみましょうと。

谷口菜穂子写真事務所
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