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年女の役割。干支がしらにバトン。渡します。

 

 大阪は新世界の通天閣で毎年行われる「干支の引き継ぎ式」をご存知だろうか。

 関西圏だと毎年、年末のニュースでほんわか、干支にちなんだ動物がそれぞれ登場して、互いに干支をもじったダジャレのようなものを混ぜ込んだ口上を述べるのだが、これって全国ネットで放送されてるものなのかな。それとも他にも各地で似たような行事があるのかな。

 と、言うことで一人、伏見人形で「干支の引き継ぎ式」ごっこをば。

 ちなみに私は今年の年女、お役目御免の終了である。


 さあ、長話に年末締めの真面目なお話。

 今年は年号が変わった。と言う件から。

 中学の時、担任の先生が「君ら気の毒やなあ。昭和で生まれて次、その次、長生きやったらその次と年号変わるやろし、じいちゃんばあちゃんになったら、えらい余計に昔の人やなあって思われるなあ」と、言ってたのを思い出す。

 その頃も明治生まれのお年寄りというのはとても遠く感じたけど、もう既に、昭和、平成、令和と、昭和生まれの我々は年号が3つも変わってる。

 年号が変わったとは言え、我が身の上だけ振り返れば、今年何か大きく変わった出来事があった訳では無かった。例えば体の調子が良くも悪くも昨日と明日で激変した、ということも無い。けれどネガティブな所だけ抽出すると、ひたひたじわじわ、ありがちな老化を起因とする変化は確実に自分の身に起こってきている。

 こういうことを言うと、目上の人から「何言うてるのまだまだ若いんやから」これからやでと、あの、返す言葉を濁す例文が飛んでくる。しかし実際に自分の下にはもう大勢過ぎるほど若い世代が連なる訳で、要するに順番がやってきてるんだ、と、ひしひし感じる。

 

 さて。今年中でくくるとして、自分はもう既に前時代の人間なんだと(非常に個人的選抜だが)はっきり認めようと思わせてくれた人を数ある中で二人挙げるとしたら、ジャーナリストの伊藤詩織さんと、ミュージシャンのビリー・アイリッシュ、だと言える。(活動スタートは両者とも、2019年でなく数年前からだが)。

 

 まず後者のビリー・アイリッシュは、ローリングストーン誌の論説で、1991年のニルヴァーナにもなぞられていたが、確かにそうかも。そして実際にはニルヴァーナの登場から、自分自身が既に前時代なんじゃないか疑惑は正直始まっていたと振り返る。カート・コバーンは、生きていれば私よりも若干年上で、本人が形成される上で影響を受けたものには、その世代ゆえ自分にも符号点は数多くあるが、爆発的に売れてしまったあの楽曲が誕生した時、私はオンタイムでその音楽性を心の隅々で感じるにはもう若干ズレていたし、要するに感性の聴力に老化が訪れていたのでは?と、今更また日常のどこかでその音楽に触れるたび、その色褪せ無さに驚き振り返る。

 話を戻してビリー・アイリッシュ。本年のデビューアルバムもそうだが、ある時youtubeで見かけたライブ映像で、マイケルジャクソンの「BAD」を、それはもう度肝を抜かれるアレンジで天才的に蘇らせていてショックを受けた。もはやお世辞にもカッコいいとは言えない(そして企画段階ではマイケルが、あのプリンスと掛け合いデュエットにする予定で進めていたものを、プリンス側が断ったらしい。そらそやろ)、前作のモンスターアルバム「スリラー」を上回らねばならない高いハードルに、前作同様クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え、当時的にはとてつもなくお金をかけて制作したであろうBAD。これをなんとアコースティックギターとボーカルという、ほんの僅かな構成だけで最高にカッコよく、歌ってのけた10代。

 共に学校には行かずホームスクールで育った実の兄と音楽制作のタッグを組み、レコーディングは実家のベッドルーム。トゥレット症候群を公表しつつも特別枠扱いは無用と言い、ダボダボの服装でセクシャリティを誇示せず、ドラッグなんて「全く要らないし、また与えないでも欲しい。そしてこれ以上、大事な友達の命も失いたくない」と断言する。

 熱狂する同世代の親世代にとって、かつてのマリリン・マンソンやエミネムが登場した頃のように「うちの子に悪影響を及ぼす邪悪な存在」などと頭ごなしに言えるわかりやすい要素は、今回こそ簡単に見つけようが無い。

 既存の人間(あるいは教育)環境こそ実はよろしく無い事だってあるんじゃないか、ってことを、果たして今後、大人世代は認めざるを得なくなるだろうか。

 

 伊藤詩織さんに関しては、あまり言葉を重ねると、それはその存在に対して何がしかの自分のステイトメントを乗っかって喋っているように勘違いされても、それはご本人に申し訳ないから少しだけ。

 ただ仮に、自分があの頃あの年齢で同じような被害にあったとしたら、果たして自分に声が上げられる勇気があったか、そして、世間からの悪意のこもった直接的なバッシング(あるいは言われずとも陰で思い込まれてる印象)にも、取り乱すことも激昂することもなく冷静に前を見て世界発信することが出来ただろうかと思えば、自分には決してその信念も知性も無かったと言い切れる。

 案の定国内では「綺麗で魅力的な女の子が」「今後の仕事上でブレーンやコネクションを持った年上男に近づいて二人きりで会って飲食し」「呑んで泥酔して」「泥酔して隙を与えたあなただって確かに悪くて」「密室では我々にもわからんから」「多分きっと同意の上で」「のちになって性被害にあったと訴えて」「相手の社会的地位を貶めた」。。。とまあ、ものの見事に世間一般の、狭くて小汚い連れ込み宿サイズに閉じ込められ、過去の価値観や想定でストーリーがガッチリ組まれた中を、いまどき一見不利とも思える詳細な長文で都度数年がかりで説明して訴えた。

 それらをきちんと読み取ろうともしないキャッチコピー好きの世間には届かずとも、少なくともその姿勢で、加害者あるいは加害者側に寄り添って論戦を張った、数多の人たちの品の無さや醜さを浮き彫りにしたのは確かだ。

 枕営業とか美人局とかハニートラップとか、昭和の「蜂のひとさし」とか?その手の大好物設定ロジックに取り憑かれた「こうである」「かくあるべき」と断言したがる世代に対し、その固定概念にようやく、一石投じられただろうか。

 さて、一方で伊藤さんの(今回の件とは関係の無い)ライフワークを目にすると、その人の成りがとてもよく分かる。今後これらの作品が世界中で評価を重ねるとき、本当の姿をようやく、周回遅れで我々日本人は理解するんだろう。

 

 ともあれ。(両者に限らず)これからの新しい時代を作っていく人たちだ。そう、心から思う。

 

 かくして、私が自分の実年齢同様、もはや中心軸からとうに離れた「過去の若者」だ、ということをしっかり認めた上でこれから生きていこう、あるいはどう生きるべきかと思うに至ったのは、それは例えば上に掲げたようなニュージェネレーションの登場に対して直接的に感じたと言うよりも、むしろ新時代を体現する若者に対して、深く読んで時代背景と照らし合わせて分析し、理解を深めるなら分かるが、彼らのわずかなミスや矛盾、ぼんやりした違和感をあげつらって、我こそ一点の曇り無し、正義、正解と思い込んで攻撃する大人たちの必死な姿だ。

 自国も含め某国の偉い人らを筆頭に、その態度、言動に救われ、加勢する市井の人達もまた一方で人間の心理を体現している訳で、そこには大人の余裕や機転、インテリジェンスもユーモアも何がしかの工夫も存在しない。政治経済に始まり個々の日常生活に至る現状の不満足と事象に対するその姿は滑稽を通り越して逆に恐怖、狂気ですらある。そうした様相に接した時、実は自分も知らずうちにこの世界なり社会なりを形成してきたその一部の要素なんだ、と、振り返るとますます怖くなってきた。

 さりとて、では今後前世代人としてどうすべきかはまだしっかり見えて無いけれど、少なくとも決して、二度とこれだけはやめておこうと誓ったのは、以下の2点である。書きながら、自戒の念を込めて。

 

1ーよく知りもしない、わかってもいない、そして目の前に居ない他者に対して、正義をぶって説教や批判をするのはやめよう。また仮に目の前に居るなら、せめて相手と対話できる形や関係性をちゃんと構築しよう。

ネットなんてもの越しの個人批判なんて、ダメだ論外。

 

2ー誰かのセリフを借りて、あるいは人の勇気や成果を借りて、まるで応援でもしているふりをしてリンクシェア。そこで結局は自分のイデオロギーを乗っけて語るのはやめよう。その乗っかっている人が、さらには自分より随分若い世代だったらもうほんとにやめよう。

 

 以上。見苦しいもの。

 

 来たる新年からは、ともかく自分のやるべきこと、果たすべきことをまずは地道に果たして、まだまだ勉強していきたいな、と思う。いつかしっかり自分の言葉で前から正しいことが言えるような、知識と経験を積んだ立派な人間になろうと思いながら生きてきたが、それもどうやらおごりだったのかもしれない。結局、まっとうな人間になるにはそんなに簡単じゃ無い。何故なら私は学習能力がひどく悪いんだもの。がしかしこれには焦る。そして行動力も低下してきてる。これにも焦る(苦笑)。だからどんどん歳を追うたび黙ってしまうのかもしれないけれど。そういうのが身にしみてだんだんようやくわかってきた。

 そう思いながら、振り返って、若い頃、わずかに会った素敵な大人の人たちって、どうだったかなと思い出す年末。

 共通して言えるのは、皆さん、仕事を猛烈にこなしておられて人の、ましてや若い世代の悪口なんかタラタラ言えるほどヒマじゃ無かったし、我ら当時の若者に対し、細かいミスや矛盾にはなんだかんだでとても寛大だった。人を褒める余裕も認める度量も持ち合わせた、こちらを鼓舞することはあれ、決して気持ちをそぎ落とすような圧力をかけることは無かった。そして時にはとても怖いけど対等に話も出来る、また色々教えてもくれる大人達だった。

 そんな人たちは、若者でも年寄りでも中年でも、おじさんでもおばさんでもなく、富んだ人でも貧した人でも、学歴あるいは社会的地位、国籍や人種も関係なく、また性的な意味合いでの男でも、また女でもなかった。

 

 これから、生きていく中で不条理、あるいは理解不能な事柄に出会った際、腑に落ちないからまずはよくよく分析しよう、とはせず、全く分からんと言う気持ちが、理解出来ない自分に向くでなく、相手に対して腹立たしい、と言う感情にそっくり転換された時、私は自分という人間はもう相当、暇を持て余した黄昏老人になってしまったんだと理解することにしよう。

 愛情無しの関係の他者を呼び捨てにしだしたら焦りと勘違いの始まり。どこでもかしこでも悪口や嫌味を言いだしたらもう重症。相手を見下しにかかったら手のつけようの無い末期。味方になる可能性がゼロじゃない周囲にまで火を噴き出して、やがて同じ症状の人達としか手を繋げなくなると、果ては国際的、あるいは社会的孤立という孤独死。

 が、一人で居れるほどやっぱり私はタフじゃないし、自分の中のネガティブサイド、似た体臭がする人たちと常群れると毒がまわる。

 兎にも角にも、そうした感情がふつふつと湧いてきたとき、手遅れにならない手立てとして少なくとも言えるのは、彼ら彼女らと比べて、自分は完全に、コミュニケーション能力も、プレゼン能力も今の所完敗してることはせめて、いちはやく認めるべきだ。地位や権力のあるなし、自分は弱者だと逃げたいところは踏ん張って。それでも自分の主張は正しいという確信があって、世のため人のため物申すべく価値と必要性があるなら、誰かを攻撃するよりその言わんことについてのみフォーカスして、それがどれだけ不利でも遠回りでも、自分の公的アピール能力をまずは向上すべし。人に届いたり響いたり、人と共感し合えたりする能力からまずは地道に磨こう。そしてその努力は決して惜しまないでいよう。今年は、それを大いに学ばせてもらって、反省するに至った。

 公の場所で、例えば、病院とかバスの中とかコンビニとかで、何か人同士がトラブルになってる時、がみがみ言ってる人の主張が仮に正しくとも、その言い方や振る舞いだけで周りは見てていい気分にならないし、どちらの味方にもなれない時ってよくある。あの感じ。多分、結局は言ってる本人だってスッキリしてない。これも若いうちは油分もあって枯れてないから見た目にシワシワもしてないけど、ある程度年齢がいくと、その表情は真に迫って怖いだけ。

 彼らとは違うと線引きして向こう側に映る鏡に、それは自分の老いた姿と確認する。

 

 まずい。自分で諸々を認めることから、来年は始めてみよう。

 一年の計は元旦にありとは言われるが、出来るだけ自己反省は、新年に持ち越したくないなと思って。


 と、ここまで。

 年末に何を長々駄文書いて、フォトグラファーなら黙ってしっかり写真でも撮ってろ、と言うお話ですが、最後までこの一年の反省文と今後の抱負を温かく読み進めて下さった方へ。

 今年も一年。本当にありがとうございました。この一年、反省することしか思い浮かばない体たらくではありますが、またどうぞ来年も、引き続きあたたかくお見守りくださったら、大変有り難いです。

 

 そしてどうぞ、良いお年をお迎えくださいませ。

 2020年が、幸せに包まれた優しい年でありますように。


 以下、黄昏年女。年末は帳尻合わせの日々雑記。

 年末にワークショップで作った注連縄飾りと。毎年恒例、残り物で始末の料理、数点と。

京都の古材文化の会さん主催によるワークショップで注連縄作り。基本の「牛蒡型」の注連縄を教わって、あとのアレンジはそれぞれ自由に。

基本、冷蔵庫や冷凍庫の残り物、酒のつまみのあまり、仕事撮影で大量に余ったままの赤、白ワイン、水切りヨーグルトの副産物であるホエーなどをすっきり使い切り。
冷蔵庫整理で、年末食材のスペース確保。がしかしよく考えれば自分のお腹にただただ移動させただけ。

親の形見の包丁。今年思い切って包丁研ぎに出した。これでおせち作りに励む。

ほんとの最後。

 

日本の土人形のルーツとも言われる伏見人形。

約400年前、伏見稲荷大社の参詣者が山の土を持ち帰って五穀豊穣を願い、我が家の田畑に撒いたことが始まり。やがてこの稲荷山の土を用いてお人形にし、参詣者のお土産となったのが伏見人形で、最盛期には5~60軒の窯元があったそうだが、現在も製作販売されているのは創業1750年ごろの「丹嘉」さん1軒のみ。

こちら「唐辛子ねずみ」はその名の通り、唐辛子に乗ったねずみ。

ねずみの繁殖力と唐辛子の種の多さにかけて、豊穣や子宝を願ったという言われの他に、干支がしらを並び替えて「とうがらし」にしたという説や、唐辛子が邪気を払うから、また穀物を守るから、という説もあるそう。

 

遅ればせながら去年から、伏見人形の干支を揃えようと決めた。
これから一巡、二巡、三巡。。。と、無事、健康でいられますように。


谷口菜穂子写真事務所
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