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遠かった、けど実は近かった京丹波町へ。


 こんなご時世だからとばかり、近くて遠い、と思い込んでいた場所へ。

 

 これまで行きたいところを行きたいように出向くことが出来た頃には(と、言ってもたった数ヶ月前までの話)なるだけ遠くへ、世界?いやまあ、まずは日本も知りましょうよと言うことで各地に目を向けがちだったけれど、昨今言われるようになった「マイクロツーリズム」も、まあなるほど、一体自分は地元をある程度でも全体的に把握していたかと問われれば全然で、高速道路もやたらに繋がれば乗ってしまって県境も意識せず飛び越えて、自宅からうんと遠くへと行き来するのみの地元だったなと振り返る。

 うんそうだ、これも良い機会と、振り返って見ればこれまでの事をすっかりみんな忘れてる間に時間はびっくりするほど経過してしまって、今や消えかけてゆくとある時代に栄えた文化の欠片だらけだと知って焦る。

 全国数多の地において、大なり小なりそんな事が、皆さんの身にも起こっては無いだろうか。良く言えば絶好の、悪く言えばギリギリの、原点回帰タイミング、なのかもしれない。

 例えば我が地元で象徴的なのが、歴史的時間軸ではわずか、といえばわずかでも、確かに子供の頃からあった、写真の「丹波の里やまがた屋」などまさしくで、創業50年にしてこの11月末にてその歴史を閉じるそうだ。古くは山陰街道の宿場町にて丹後の日本海と天橋立、山陰城崎、湯村温泉との分岐に位置し、9号線と27号線の交わる交差点のドライブオアシスだった。大容量の駐車場に土産物、フードコートを併設し、我々京都市内の者がかつて日本海へ遊びに行くにはこっち周りで途中「やまがた屋」で休憩するか、滋賀経由で「琵琶湖タワー」で休憩するか、の選択だった。ちなみに、琵琶湖タワーはとうの昔に無くなってしまって、お土産を売っているのに昭和の置き土産と化した、と言う表現はシニカル過ぎるのか。

 閉店の知らせにあった新聞には、京都縦貫道が貫通した事が大きな要因にて今般のコロナでトドメを刺されたとあるが、それも確かに大いにありで、加えて今や京丹波町には道の駅だけでも4つも備わっていて、そのいずれもが現代に即してアップデートされており、またいずれも人が求める魅力的な名産品はたくさんあれど、それらの出口が大きく変わったのも要因の一つだろう。訪れる人が辺りで劇的に減った、と言うのは一概に言えない。もっとも新しい道の駅などはたくさんの人で溢れて密々してて、今がどういう状況かをあれ?っと忘れさせてくれる勢いだったりもする。

 

 しかし個人の経営でよくここまで多くの旅人を長年に渡りもてなしてこられたと本当に思う。さようなら。ありがとうやまがた屋さん。


 ちなみに、マイクロツーリズムの定義を今一度知ると、自宅から1~2時間圏内の地元または近隣への宿泊観光や日帰り観光を指すとある。

 1970年台以前、日本の温泉地や観光地市場の大半はこのマイクロツーリズムであったとされ、陸路、空路のインフラ充実に伴って遠距離観光が手軽となり、マイクロツーリズム市場は縮小に転じた、とされる。

 が、国内需要がそれぞれ越境して、つまり誰かがどこかに移動して、それが満遍なく国内を循環してれば単純発想ではそれぞれもまた満遍なく潤う筈じゃ無いか?とも思われるが、SNSの進化やインバウンド市場が大きくうねるよりも以前に、国内では観光地によって随分なムラが生じてた、と思う。確かに流行りや発信力の違いもあったろうし、そもそもで人の住処、つまり拠点が一極集中して1、2時間圏内もムラが生じたのもあるだろう。あるいは、国内の需要が海外に流れた、と言うのもあったんじゃ無いか。要因を思えば様々にある。
 が。コロナ後のニューノーマル、なんて言われているが、そんな劇的に白から黒、黒から白へ転じなくても、もしかして良いんじゃないか?70年代以前の価値観や文化に引き戻された今、多少のアップデートを施す事で緩めに生きて過ごすことは果たして出来ないだろうか。車離れも加速したと言われ続けた昨今にあって、今また密々しい電車や飛行機での移動よりもマイカーでの隔離移動が気安いと言うのは最近までの未来予想からすれば実に皮肉な事だ。加えて都会への人の流出と異常なほどの一極集中的な人口過密化は、自然災害やら以外にもそれ相応のリスクもあると痛感させられた。
 今起こっている現状と現象をよく掘り起こして分析し、緩やかに流れを変える、何かヒントのようなものも、実はまだまだ転がってるんじゃ無いかと思う。 


 さて。

 今回は京丹波町を知る、と言うテーマで、個人的趣向により今は廃校となった「旧須知小学校」に行ってみた。

 メイン道路の国道9号線をちょっと入ったいい塩梅の高台にある小学校。背景は山(現在は縦貫道が山間にチラ見え)、目前は見渡す京丹波の街並みと、非常に素敵なロケーションにある木造の学校校舎で、いかにも安全そうで健康的で、遠い昔に地元の子供達を大事に思って建てられたんだろう素敵な教育環境だ。子供相手に子供騙しな見せかけだけの建物を作るんじゃあ決して無かった時代の校舎は、町の規模からすると実に立派で大きく、ダイナミックかつ格調高い造り。石階段を上がった先の石柱から覗く正面玄関の佇まいは、一見するとお寺のようだ。ああこの広大な敷地、全体像を空から俯瞰で見てみたいなあと思った。建物内部は残念ながら見学出来なかったので、全体の構成がいまいち分からない。

 以下添付引用の京丹波町観光協会の説明には、現在は学童保育などに活用されているとあるが、実際、校舎正面玄関には学童保育は別の小学校校舎に移転しました、と書かれていたので、いよいよ、利用頻度は今や限りなく少なくなっているだろう勿体なさ。一方で、次回のお楽しみとして今回は訪れなかった同じく京丹波町の「旧質美小学校」(平成23年閉校)は、卒業生である地元住民の意向によって町から彼らに管理を委託し、飲食店や雑貨屋さんなどのテナントを充実させ、また各種のサークル活動などで有効活用しているようだ。ちなみにこちら校舎は鉄筋コンクリートみたいだが。。。(注ーお寄せいただいたコメントから、質美小学校校舎も木造校舎、とあるので訂正します。)

 ともあれ。旧須知小学校の説明を以下、観光協会HPから引用を。↓

 

映画「銀河鉄道の夜」のロケ地になり、舞台ともなった須知小学校舎は、いわれは古く明治5年、須知村の前田九一郎氏別荘を仮校舎に尚綗校を創立したのが始まりとされる。

明治20年7月、学制改正により尚綗校改め須知尋常小学校と改称。明治23年5月、校舎を現在の金剛谷に移転した。その後、何度か校舎を増築したが、昭和8年から、それまであった校舎を全面的に改築する工事が始まった。昭和10年までに、北校舎ほか本館、講堂改築、南校舎改築工事も同年10月に完成、それぞれ現在にいたっている。新校舎は昭和8年以前にあった校舎の規模や平面を踏襲しながら改築したものである。

戦後、本館2階にあった旧音楽室を図書室に改めたり、畳敷きの会議室を児童会室にしたり手を加えたほか、平成6年から同9年にかけて床の張り替えやアルミサッシ、外壁のペンキ塗り替えなど建築維持の工事が行われ、おおむね建設当初の状態が保たれている。

全体的に保存状態は良好で、各廊下や階段など四半世紀を経た総桧造の木造校舎としては、風土にあった風格すら感じられる。また、講堂天井まわりの意匠や外観、外壁の下見板張りなどに昭和初期の小学校建築の典型を見ることができる。

平成12年3月、統合のために閉校。現在は学童保育やスポーツ生涯学習などに利用されている。


 と、いうわけでお昼ご飯に今回は、特産品の瑞穂そば。

 平成13年頃より農用地の利用促進を図るべく蕎麦の栽培を始めたと言う京丹波町。

 つまり比較的新しい地元特産品という訳だが、採れたそばを「瑞穂そば」と銘打ち、地元の新たな特産品として町内のいくつかの飲食店で食することが出来る。

 今回食べたのは道の駅「瑞穂の里さらびき」の自然薯とろろの十割蕎麦。

 食券を買って食堂のお姉さんに手渡して、大声で呼ばれたら取りに行く、と言うスタイル。そして出来た料理も道の駅の食堂らしい全く色気の無い器に盛られたものだけど。。。この蕎麦!めちゃくちゃ美味しい!!!店内には週末バイカーさん達を多く見かけたが、やっぱり、皆さんよくご存知ですね。さすが今に始まったわけじゃ無いマイクロツーリズムの達人。これはまたすぐにでも食べたいなあ。

 

 帰りに町内にある道の駅「味夢の里」にて地元特産品をたっぷり買って帰路へ。京丹波の掘り下げはまだ始まったばかり。ここでしか買えないものもたくさんあるから、来るたびまた面白そうな所を開拓しようと誓った。

 

 今日はひとまずこれくらいで。
 近い所って、何度でも気軽に行ける、そしてじっくり見れる良さがありますよね。


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