今月のこと。
叔父、正確には父の妹さんである叔母のご主人が亡くなった。
父親の兄弟姉妹の中でも郷里の鹿児島を離れ、関西で暮らす者同士最も距離が近かったのもあるが、父親が病に伏せて亡くなって以降は私にとっては親の様な存在、どんな失態を私がやらかそうとも「絶対的な味方」で居てくれる存在だった。が一方で日々、日常が親子の様に密接でも無く、コロナの長く直接会えない中ではより一層、電話で会話するといつもの如く強力な応援隊長を気取ってくれていたものだから、こんないとも簡単に命が終えてしまう程に弱っていたことも察しておらず、そうだ、ちゃんと理解して常案じていたならこんなことになろうというのも分かっていた筈なのに、と、まるで恩を返せなかった後悔やら、また大事な心の柱を失った喪失感やら、とてつもない悲しみに暮れている。そして、もういい歳なのにこんなにも動揺し、心が痛くて堪らない自分の不甲斐なさにも。
なんの言い訳も見つからない。
訃報が届いたのはちょうど、長丁場の案件撮影がスタートする2日前の事だった。
この案件というもの、某公共組織の広報撮影なのだが毎年コンペで、しかしながら近年4回連続で有難くも関わらせて頂き、去年はコンペに落とされ、また今年復活することになったものだ。
普段、自分がどんな仕事をしているか、どんなものを撮影したか、どんな企業や組織に関わらせて頂いているかを私はあまり周囲に大っぴらには話さない。時に仕事の写真や制作物を「作品」と語り詳に公表する人も居るが、私にはささやかなポリシーがあってそれはしない。こうも黙っていると誤解されているかもしれないが、感情面では仕事は仕事、作品は作品、と分けてこちらは食べるため、こちらは自由な表現の心地を得るため、という惰性的振り分けや割り切り感情も実は全く無い。今様に言えばセルフプロデュースはかなり消極的、あるいは苦手ではあるが、まあ「匂わせ系」で充分かなと思っている。
我々の様な仕事はまず、写真であるなら対象である被写体にはそれを創造された企業や組織、あるいは人があり、それが製品や食品などであるなら技術者や職人の方がおられ、企業等組織全体であれば作り上げ、束ねられた、またそれらを支える人達がおられる。こうした組織の広報活動に対し、仕事を勝ち取るべく日々アプローチの努力を重ねる広報系企業や制作会社の営業さんがおられる。営業さんの弾き出す数字の実体と、先方が納得される形を作ってみせるプロデューサーやディレクター、デザイナー、ライターさんがおられる。そうして一つの案件が成立し、動き出した時には、現場にはまたスタイリストやヘアメイク、コーディネイターやそれぞれのアシスタントなどプロの職人らが実際の形を作る。
一枚の写真にはこれらの背景があって、我々の様なフォトグラファーはその一端、カケラでしか実は無い。だからとても、我がものではいられない。出来上がってみたものをかざしたとき、それは全ての人への尊敬と感謝を抜きには決して語れないのだ。
と、説明が少々長くなったが、ある時、生前の叔父の昔話に耳を傾けていると叔父のお父さんはその昔、時代的には戦前から戦中、戦後にかけて、東京で、私が関わった某公共組織の更に中枢組織におられたと話された。親の苦労話も含め、その様子があんまり誇らしげだったので私もポロリ、「今、関連の撮影に関わらせてもらってるんです」と言ってみた。実は私の中でも、とても骨は折れるがやりがいのある仕事内容の一つでもあったし、ちょっと、誰にでも撮れる訳じゃ無いと密かな自負が芽生えた案件でもあったから。
すると驚くほど、叔父はたいそう喜んだ。「そうかあ菜穂ちゃん。それは良かったなあ!それは良かった!大事にしいな。大事に撮って、繋がって、繋がり続けて絶対損は無いからな」と言う。
なんと言うか、叔父は(共に叔母もそうだが)物言いが常に確証も無いのに揺るぎない自信を相手に植え付けるのが天才的で、ああこの人にそんなふうに言ってもらえたらそうかもな、と思わせる断言力がとにかく強い。普段は大体ニコニコしてそんなにお喋りでも無いし、人の話をじっくり聞く側のタイプであるが、いざと言うときには目の奥が光って、ドンと背中を押してくれて、ほだされてうっかり前に出てしまってもその後ろを常にエアで支えてくれる様な安心感がある。
がしかし、この件に関する叔父の喜びようは別格だった。あんまり喜んでくれるからこちらも嬉しくて、「でも、毎年コンペやし次やれる確証は無いし、何よりコンペの段階では私は関われないし、つまり自分だけ頑張って取れるもんじゃ無いし」と一応ふせんとして説明を付け加えても「いや、菜穂ちゃんやったら大丈夫や。頑張れ頑張れ!いやあ、良かったなあ良かった!」と言い続ける。
だから、去年コンペから落ちた時にも伝えた際には「大丈夫。また絶対やれる」と叔父は断言した。
思えば、叔父はただただ嬉しかったんだと思う。尊敬する自分の親の仕事に繋がる一端に自分の姪っ子が関われた事、そしてその組織の仕事に関わる事で、その仕事の大変さをちょっとでも理解して話が出来ると言う繋がりと存在が。
今年、また返り咲いて撮影させていただく事になった。これを無事に終えたら叔父に報告して、どんなに素晴らしい組織だったかをまたお話するのを楽しみにしていた。そんな矢先の事だった。
葬儀はコロナのせいもあって、家族葬で親戚も呼ばずに小さくやるから「来なくていいし、それを気にやまない様に」と電話の向こうで叔母は言った。が、私は無理を言ってお通夜に参加させてもらった。
会場に着いたらもう本当に叔母、子供らと孫だけでお焼香も済んでいてお坊さんのお経が唱えられていた。お邪魔する身、そっとしてるつもり、家で一人で泣くだけ泣いたのに、会場でまた声を上げて泣いて止まらなくなった。いとこは「ありがとうねえ菜穂ちゃん。そんな悲しんでくれて。私らぼんやりしてちょっとドライかも」と言った。「いや、私もお父さんが亡くなった時は全然泣かなかった。やる事いっぱいあるもんね」と返したら、「そう言えばあの頃『猫が死んだときの方が泣いた』って言うてたね」といとこは笑った。
お経がいったん終わると、お坊さんがこちらを振り返って静かにお話をされ出した。戒名の文字の説明をされ、それぞれの漢字には聞き取った生前の叔父の人柄とその意味を含むことを丁寧に説明してくださった。そして
「我々の様に宗教者にとって、お通夜と言うのは意味があるんです。亡き人は実はまだ、本当の意味では亡くなってはおられません。生きたい、生きたいとして魂が体から離れず、なんとか手足を動かそうともがいていらっしゃると言うのが解釈です。ですが残念ながら、それはもうけっして叶いません。ですからなんとか、お経を唱えてそれが叶わないことをお伝えし、無事に安心して彼方の方へ行かれる様、お見送りしている次第です。ですので皆さんも、どうぞ我々宗教者とこの度は同じ様に、ご生前の感謝の気持ちを込めてご一緒に『南無阿弥陀仏』をご唱和いただけませんでしょうか」というようなことを仰った。
お話の間中、私は叔父の事を思い返した。これまでかけてもらった言葉の全て、その時々の表情が空でも思い描けた。父親の葬儀の際には、兄二人を差し置いて私が喪主をやる事を推してくれて、いまだ静かな男尊女卑傾向にある鹿児島特有の風潮の中でガンと盾になってくれた叔父。「足らんものがあっても安心しなさい」と破格の香典をそっと渡してくれた叔父。お陰で私は立派な葬式をさせて貰えたのに。色んな人が私同様、感謝と恩があったろうに。こんなコロナのせいで小さな家族葬で叔父さんはさよならするんだ。返せてない。返せてない。何にも返せてないと言う後悔が襲う。
叔父の人生を文字にすれば、とても良きものであったろうと客観的には思う。田舎から出て同郷の叔母と結婚して子供が二人、仕事を勤め上げ、スポーツが大好きでママさんバレーの監督をし、どちらか言えば組織人の大勢の内の一人よりお山の大将気質だから、仕事なんて嫌でしょうがない、会社を辞めたら遊んで暮らすとずっと豪語してた筈が、関連の下請け企業の御隠居に人柄を請われ社内改革を求められ、退職後に社長として迎えられ、今年の春までそこに席があった。途中あれほど大好きだった車を投げて、免許更新のたびに年寄り扱いされるのが腹立たしいと免許返上の後は、毎度運転手さんに迎えて貰えてご機嫌だった。「叔父さんはすごいなあ。大器晩成の見本やなあ」と言うとまんざらでも無さそうだった。
一方で、そういう人生を支えたのが叔母で、時代が時代、伴侶が違えば(あるいは結婚してなければ)相当優秀なキャリアウーマン気質の筈の叔母は、共にフルタイムで仕事をしつつもまるで外で仕事はしていない専業主婦のように、家に帰ると一切テレビの前から動かない叔父の面倒を文句も言わず甲斐甲斐しく見てきた。つまり叔父は典型的な亭主関白で、本来的には私にとって苦手な人柄だった筈。逆を言えばおてんばで男勝りの私のような人間もまた、叔父は苦手だった筈。なのにとても可愛がってもらえた。家族の目線からだと思い切り外面の良い、周りの人間と言うと、内外両方分かっていても一部熱狂的ファンが叔父をとても慕った。
「叔父さん、自分では90までは生きるつもりやったんよ」と叔母は言う。「春に貰った退職金も、ああ90まで毎月、これだけ遊びに使えるなあって、電卓叩いて日割り計算しては喜んどったんよ」「私の(叔父の体調)管理が行き届かんかったから、こんな結果になってしまった」と何度も繰り返す。お酒は飲まなかったけど無類の甘味好き、元祖スイーツ男子だった叔父。昔から重度の糖尿病を患っており、「叔母さんが居てくれたからこんなに叔父さん、長生き出来たんや」と私も重ねて繰り返してみる。
そんな、散れ散れの思いや言葉が浮かんでは消える。何を思っても結局苦しい。浮かぶのは感謝だけ。それから恩を返せてない後悔だけ。
父親の郷の流れもあって一応神道という事になってはいるが、私自身は無神論、無宗教者。が、「南無阿弥陀仏」を10回唱える時、こんなにも、ありがとうございましたと言う気持ちを込めてすがる様に念仏を唱える心地は初めてだった。まだ、本当にこの場に叔父さんの魂があることを信じて。せめて思いが届いて欲しい、伝えたい気持ち一心で。
良いお坊さん。それだけが救いだった。
そんな事があって、この11月中の仕事は、私の中で叔父との約束のような気持ちがあって挑んだ。
なんとか乗り越えて、お客様に喜んで貰えて、チームの皆さんの足を引っ張らないよう、ああ一緒に仕事が出来て良かったと思ってもらえる様にと。
途中、言ってしまえば変な所が力み過ぎてるだけ、あるいは更年期特有の痛みなだけだろうけど、そこら中の関節が悲鳴を上げて、痛すぎて疲れすぎて寝不足で、疲労困憊の日々だったが、叔父さんが常に私の体について、支えてくれて、無駄なくらいに発破をかけてくれてる様に思えて、そう思うと、そこら中がだる重いのも叔父の存在の様な感覚もあった。
一方、時間を縫って縫って、今年の個人目標として立てている地元の寺社仏閣の季節写真もなんとか並行して撮影して回った。大切な人たちへの思いを込めた。そして自分もそこで癒されたかった。
恐らく、京都の寺社が好きで足が強かった頃はあちこち訪れたらしい叔父も一緒に、ずっと側に居たと思う。喜んでもらえたなら、せめても嬉しい。