

コンビニの書籍コーナーって一体。
推理小説から自己啓発もの。ご当地観光ガイドにビジネス本。雑誌に料理本。ゴシップから漫画、アダルト雑誌まで。あの狭い書棚にみっちり揃う。一体誰が選んでるんだろう。そしてその狙い通りかほんの時々、うっかりまんまと釣られてしまう。
漫画を買うのは勿論借りるのも禁止という偏向教育論者な母親の元で子供時代を過ごした私だが、白い上質紙に金の箔押しフォントがデザイン共々に綺麗な一冊に引っかかった。その名も「漫画方丈記」。サブタイトルは「日本最古の災害文学」。帯に解説者の養老孟司のコメント。そりゃ買ってしまうでしょう。
解説にある通り、近い時代の平家物語の書き出し「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と、「方丈記」の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」しか記憶に無い。曰く「同じ感慨を示し」ており、「どちらもすべてのものは移り変わり、とどまることはないと述べている」。そう言えば、平家物語のとっかかりもかなり前になるが、多分コンビニの書棚にあった漫画だったかも。
原稿用紙に換算してわずか25枚程度の文章により、作者の鴨長明が京の都において人生で実体験した5つの禍いを記した書物=方丈記。振り返れば実は極めて短い人の世の中、都を離れ、人からも離れ、最期に過ごした山野のタイニーハウスにおいて俯瞰的に述懐されたものだ。
そもそもで短いものを、更に簡略させて漫画化したものであるから入り口はとてもイージー。が、そのもしかして行間にある深い溝を今更ながらなぞりたくなった。アマゾンで現代語訳を注文したところでお薦めで出てきた水木しげるの作画によるものもつい買ってしまう。
(写真は鹿児島だとコンビニで普通に買える宮崎のローカル飲むヨーグルト。この手の地元の緩いデザインの紙パック飲料はつい買ってしまう)

先月末の土曜日。
神戸のベイエリアにある巨大イベント会場に向かった。目的は、アメリカのR&Bボーカリスト、NE-YOのコンサートである。
その先スケジュールがどうなってるか予想もつかないフリーランスの身ながら数ヶ月前からチケットをゲットして、何万人規模の観客動員を誇る、昔風で言うなら「外タレ」ライブに行ったのは一体何十年振りか。
バブルの頃は夢のように超有名アーティストがごぞって来日し、自分も若かったので2時間立って歌って踊れる体力もあり、当時観たいのは大抵観に行った。更に昔は家電話かつダイアル式で勿論リダイアルボタンなど無い中を、夜通しチケットゲットする為に、ダイアルがゆるゆる戻るのをイライラと穴に指を突っ込んだままなんとか早回しして、必死で予約電話を掛け続けたりしたものだ。
今思えば、ああいう不便さもインクルードでイベントお宝感に繋がっていたのかもしれない。

結構な値段のチケット代にして二階席から見える数センチのNE-YOを眺めながら、そして知らぬ間に目覚ましく進化していたライティング技術にモーショングラフィックス(冷静に思えば大掛かりなアナログ舞台装置より搬入出もずっと楽そうではある)によるステージングに巨大モニターは、遠くともライブに参加している来場者全員の多幸感を得るには十分なものに仕上がっていた。オリジナル音源と同じコードにも、デビューから20年を経ても全く変わらない、常にボイトレやダンスの鍛錬を怠っていないんだろうNE-YOのプロフェッショナル振りにも脱帽した。
ああしかし。
大きなものを動かすには合理的なものとして整えるべく、パッケージング化され完全制御されたものに対して全員で従うと言う必須を、今更ながら同時に思い知った。
最寄駅から輸送されるシャトルバスから始まり、昨今好まれるショート動画ばりに、矢継ぎ早においしい見せ場で潔くカットされるヒット曲の連打、許されないミスの中で時間通り終わるアンコールの無いエンディング、そしてつつがなく流れに導かれて帰路に至るまで。最高のお試し感と便利さの一方でどこかとても不自由な、現実と非現実のグラデーションの皆無さ。言えば急激に覚めさせられる疑似恋愛感に似た事後の空虚さよ。
大きな資本によって完璧にキラキラと彩られて余白無く導かれるもの、つまりは都会的完成度というものが個人的にはもういよいよ無理になったのかも。見透かし癖という歳を取り過ぎて。
これでもう、都会の方にアンテナを向けて、大箱ライブに行くことは無い事に心のキリが完全についた。締めがNE-YOで良かった。あとはもう、超大箱でもなんとか聴きに行きたいアーティストは、思いつく限りこの世には既に居ないか、採算的に絶対あり得ないだろう、小規模ホールで聴きいりたい人ばかりだ。

今年ほど、かつて無いくらい鹿児島に行きたい願望が通じたのか、志布志方面にある焼酎蔵の撮影の仕事が入り、10月に入って3日間と鹿児島へ。翌早朝の工程から追うので飛行機で前乗りして、先ずは鹿児島空港から近い父親の郷里へ墓参りに向かう。
里に着くと一番に家のすぐそばの北辰さん(正式名称は天御中主神社。江戸時代末期まではご先祖代々こちらの神主だったと伝え聞く)にお参りしお札を貰うのだが、ちょうど叔父さんが氏子総代の半被を着て境内の掃除をしていた所だった。お参りも済ませてさあ家の裏山のお墓に行こうと思ったら、なんと福岡に住んでる父の兄弟の一番下の叔父さんにもばったり出会した。
私は普段、仕事で鹿児島に行く際には郷里の誰にも連絡しないで向かうことにしている。立ち寄れる時間が読めないのもあるし、待ち構えられてそそくさと後にするのも申し訳なく、向こうからするとふらっと来られて迷惑かもしれないが、神社に行って墓参りして、なんだかんだ忙しい田舎暮らしに誰も居ない事も多く、その際は玄関にお土産袋をぶら下げて、叔父さん家のわんこにおやつをあげて満足して立ち去るのが常。だからこれはびっくり驚いた。
きっと亡くなった父や、昨年亡くなった叔母の見えざる力が働いたんだと思う。

思わず賑やかなものになった、私自身は住んだこともない郷里の墓参り。
福岡の叔父さんと一緒に、谷口さんだらけのお墓のひとつひとつに水をかえてお花を供えると、叔父は手にしていた尺八を組み立て、裏山に響くいい音色でおもむろに吹き始めた。これは生まれる前に亡くなったので会ったこともない私のお祖父さんの尺八だそうだ。ここまででもう、咀嚼力の限界を超えている。
予測のつかないハプニングほど、こちらの感情を揺さぶるものは無い。が、思えば叔父たちにとってみれば全ては普段通りの日常であり、かえって突然現れる私の方が、日常を非日常と瞬間にして変えてしまっている存在なのだ。けれど、叔父たちはいつ何時も平常通りで、暖かく、どっしりと、まるでいつも私がそこに居るかのように振る舞う。そして時間の許す限りギリギリまで、懐かしい話や、田舎の話を聞かせてくれるのだ。
父親の墓前で「お父さんありがとうね」とふと口をついたら、叔父さんは「そうやって感謝する気持ちを常に持ってたら(人生)大丈夫よ」と褒めてくれた。なんというか、いつもふとした時に父方の親戚は皆、言い切り型で強くアツい言葉をさりげなく言ってくれる。

鹿児島県志布志市志布志町志布志(しぶしししぶしちょうしぶし)。
空港からは路面バスのみしか走っておらず乗る事約2時間近く。鹿児島県の東部、大隅半島の付け根部分にあって宮崎県と接する、文字がバグっている訳で無いけど地元さえ広報ネタにしている志布志。平安末期より港として発展し海を糧に栄え、江戸時代には内外交易でひらけた街だった。志布志線や大隈線が廃線となって以降は、鉄道で行くには宮崎県を経由しなければ入れない。ちなみに関西からだとフェリーで繋がる終着港である。
南国特有の鮮やかな花が道端に咲く中、その強烈な対比として空家、空き物件が乾いた土地にボツボツと並ぶ人口3万人未満の街。時々、地震が襲った奥能登と見まごうような、脈打つ屋根の完全崩落した家をいくつも見かける。ここに至るまでの道のりにも、つい先日の豪雨災害で崩落したまま、片側通行になっている道路をいくつか目にした。

仕事柄、観光目的で無く時折あちこちの地方を訪れて、このように人知れず崩壊の一途を辿る誰かにとっての故郷を眺める度に思う。
自然災害で強烈な痛みを味わったところに対して注目も束の間となるジレンマは、ただ単純に時間の経過と共にメディア露出が減って云々、という恨み節が通らない現実があると痛感する。
「忘れられる」「見捨てられる」と言った危機感迫る現状が、有事と平時垣根無くあまりにも各地に実は存在していて、日本全人口の1/10都心部やその周辺、あるいは各地のコアな都会以外の在野の人々にとっては外野でなくむしろ同じく当事者。もはやいっぱいいっぱいの問題が身近に山積しており、今にも押し潰されてしまいそうなのだ。そんなキワキワの状況を、なんとか踏ん張るべくみんな頑張っている。
一気に消滅するのも恐ろしいが、じわじわと何年、何十年とかけて枯れてゆくのも非常に辛い。






と、ここまで。悲観的な話は横に置いて。
鹿児島県の一大産業にして売上の厳しい焼酎業界は、蓋を開けると相当アナログで、人の存在がとても近い仕事によって守られている。
大規模であれ小規模であれ大抵一緒。芋が農場から運ばれ、朝一番から近所の日焼けした爺さん婆さんがこの時期限定で駆り出され芋切りに勤しむ。ヘタや傷んだ箇所は豪快に包丁で切り落とされ(これらは家畜の餌となり、やがては県産ブランド牛や豚となる)、蒸して麹と合わせて熟成され、出来たもろみを蒸留させる。ゴロゴロと洗われ踊る芋、包丁の立てるリズム、蒸した芋の甘い香り。
日本酒の作られる工程はより神聖でこれはこれで神々しくていつも惹かれるが、一方の焼酎のなんというかラフさというか独特のローカルな下支えによる作りは、郷愁感に誘われ、何より土と近くてとても魅力的である。
(写真は焼酎の原料である芋畑)

現地集合した我々クルーを待ち構えるクライアントが、心を込めておもてなし下さった。
初日の夜は、超美味な馬肉も含まれた刺身盛り合わせに山盛りの串カツが食べ放題&飲み放題だが作法に一角うるさいお店(Googleの口コミは味の高評価と接客の低評価で完全に割れているお店)。二日目の昼は45分じっくり低温で焼き上げるトンテキが名物のお店(自分史上最高の味)。夜は志布志銀座の居酒屋と超ローカルスナック(流れ流れるお姉さんたちの人生の旅路を想像するのも切な楽しい)、シメの記憶に残る豚骨系ラーメン(自分史上最高の味。2回目)。そして三日目の昼はこれまた絶品のつけ蕎麦(案外鹿児島は蕎麦文化)。いずれも、アテンド下さった方の推しの店。
曰く「多分もうあと数年すれば無くなるだろうから、それも困るので個人的にもしょっちゅう通っている、どれも自分が本気で大好きなお店」とのこと。さあ、いずれの店も、一体、志布志のどこにこんなに人が居るのかと驚くほど賑わっているのに、なぜいずれ無くなると言うのか一瞬不思議で問うてみたら「どこもご高齢なのでね。継ぐ人もいないでしょうし」との事。
そういう刹那を噛み締めながら、この絶妙にして見事な郷土の味を心底愛してる人なんだなあ。そう思うと、めちゃくちゃ人として(言っても長年知った方だが)一層好きになった。そして過疎化が進む地域の無色彩な景色にたくさんの色を添えて、見落としがちなその場のオンリーワンな魅力を伝えて下さった事に、心から感謝した。







父の郷里の集落を治める神社にて、挨拶もそこそこに叔父さんが「ほら、珍しいでしょ」と私の手にセミの抜け殻を乗っけた。叔父さんにとって、50も半ばを迎える私は今だ、そんなのを喜ぶ子供のままなのかもしれない。そう思うとちょっと照れくさくて笑った。ただ、そんな何気無いやりとりもまさか永遠では無い事をその姿に悟り、ギュンと切なくなる。
そう言えば子供の頃、セミの生涯は地上に出て僅か数週間で散々鳴いて死んでしまうのを教えてもらうと、なんだか悲しいなと感じたものだが、それ以前に地中で数年、種類によっては十何年も生きており、幼虫もセミ、成虫もセミ。思えば「悲しい」だなんて、それは一見的な思い込みかもしれないな。
どうやら、自分の命も有限である事を悟り出すと、日常のなんでも無い事の全てが、当たり前では決して無いことを噛み締めるようになる。そしてソワソワ焦る気持ちにもなる。でも、その終わりはいつだか予想なんて決して出来ない。どんなに安全網を張ったって、多分間に合いっこないハプニングが超えてくる。ただ。それを、一概に恐怖や不安というものに何もかも括れるだろうか。正解の無い事、余白や余地にも、時に救われることは無いだろうか。そうも思う。
もうちょっと、思い込みと諦めを砕くべく、抗って生きよう。平穏で安全で完璧なものは、いずれ死んだら永久に得られるだろうから。
方丈記的生き方は、また当分先に伸ばして、俯瞰よりもトライアンドエラーで近寄って、何事もよく感じてみたいと思う。
そんなのが、何の役にも立たなかったとしても。

(焼酎蔵に引っかかっていたキーホルダー)