記録装置による抗いと敗北(2013-2018)
これらの写真は、明治5年に日本で初めて創立した京都の公立女学校を前身とし、第二次世界大戦後に男女共学の公立高校となった、戦前当時の女学校の面影が色濃く残った学校校舎です。
2013年春、校舎建替えを新聞発表で初めて知り、一卒業生である私はその他多くの卒業生たち同様、驚きと共に見納めとして数十年振りに校舎を訪れました。夏休み以降、仮校舎への引っ越し準備に勤しむ教員らは携えたカメラに目をやると「いっぱい撮って写真に残して下さいね」と口々に言いました。
私が在校していた頃からもう既に古く物憂げだった校舎。元女学校校舎というイメージに反して、屈強で威圧的ですらある建物を改めて目にした率直な気持ちとして、何も全面建替えなどしなくても今もって躯体は頑丈そうだし、リノベーションで済むのではと感じた一方で、東日本大震災以降、危機感を煽られた南海トラフ地震にそこはかとなく身構え、もう誰もが表面上の経年劣化による痛みに対してその存在が消える事を諦め、あるいは学力低下や不人気のレッテルからの刷新、名門校リバイバルに向けた一部称賛の声の中、この校舎が今だあちこちで放つ独特の空気感や肌触り、重厚感、光と陰、匂い、余白と余地、これらが作用する陰鬱さを伴う居心地の丁度良さに対し、一過性ムーブメントであってもその勢いに偏っている現状では、誰彼もと共感を育めることは無いだろうと絶望しました。これまでも良し悪し全てが歴史を語る上でも大事という共通認識があるなら、全面解体するなどと言う結論に至らなかったんじゃないか、そう思ったのです。加えて、そうした事が広く理解されなければ、たとえリノベーションという方針に転換したとて、細かながらも大切な要素を内包するディテールは全て漂白され、今風のどうしようもない安価な付帯物で覆われてしまうだろうという諦めの気持ちも湧きました。
その後、撮りきれない写真記録を重ねるべく校舎に通う度、当時の校長や副校長、共学化以降の同窓会理事らに沸々とした疑問を投げかけてもまるで的を得た答えは返ってきませんでした。仮校舎への移転後に全面解体した先の新校舎について「これまでの面影や意匠を含め検討中」と返され、つまり部分的にも本物を残すという考えは全く無く、有り得たとして模造品や雰囲気の継承という考えであるのは見えてきました。一体、新たな校舎の完成予想図も全く無いまま、とりあえず壊してから基本計画の発表となるでしょうという、公金投入による筈の公共施設の今後の在り方として違和感が拭えず、オープンな議論が成されない上での既成事実の積み重ねにのみ委ねられたかつて関わりのあった建物、あの、「批判的精神」を美徳とした校風を育てた筈の最期がこれだなんてと悲しくもあり、「合意形成」に至る醸成の大切さを学んできた筈ではやはり、無かったんだなと深い溜息をつきました。
「神は細部に宿る」という有名な言葉は、元々建築やデザインの分野で拡がった言葉です。
この校舎は通りを挟んだ真向かいに京都御苑が広がり、戦前には宮家も通われ当時の価値観としてはとても誉れ高く、地元だけでなく府外からも良家の才女が勉学に励む「西の学習院」と呼ばれた名門女学校でした。創立地であった丸太町鴨川沿いの五摂家の一つ、九条家・河原町別邸から現在地に移築した門を正門として構え、その隣には篤志家や卒業父兄からの寄付による大量の蔵書を有した別棟の立派な図書館が並び、校舎敷地側と寺町通側と二つの出入り口が設けられ、学生だけでなく一般市民にも解放された教育施設としての機能を有していました。校舎裏庭には裏千家の寄贈による茶室と九条家から移築した「和室」と呼ばれた平家建ての木造建築が残り、新島八重がこの女学校で教鞭をとった際、茶の湯の師と仰いだ茶道教授との出会いの場であるまさに象徴的な存在でしたが、折りしも解体発表の同年から始まった大河ドラマで注目を浴びるまでは、誰もその細かな来歴を知りませんでした。
それまで男子のみの競技の祭典であったオリンピックが女子にも参加が可能となった1928年のアムステルダムオリンピックに、日本人女子選手が初出場でメダルを獲得した事を契機に、自立した未来志向の女性像を標榜すべく、昭和初期の現在に繋がる校舎に改築された際に整えられた体育施設には、当時大変珍しかった全天候型の室内温水プールを併設した体育館があり、竣工記念には日本人女性選手メダリストを招いてデモンストレーションを行い、1936年の(当時同盟国であったナチスドイツのプロパガンダ大会と評される)ベルリンオリンピックには複数の生徒が出場しました。本館敷地と通りを挟んだ元々は学生寮があった運動場には、女子生徒達がむやみに人目に触れないよう地下道で繋がっており、戦争が激化すると、運動場は食糧不足を補うべく畑となって女学生達はそこで野菜を育てたり、鍛錬に武道を学んだりしました。白亜の校舎は爆撃の標的にならないよう、コールタールで真っ黒に塗られて迷彩化され、教室の一部は軍需工場としても機能しました。
戦後、長きに渡り進駐軍によって温水プール、体育館、運動場などが占拠され、彼らのジープが駆け回りました。戦中と戦後で全ての価値観が一変し、アメリカ郊外をモデルとする学制改革による高校三原則(小学区制・総合制・男女共学)に基づき、共に市内に存在した公立のエリート男子校の生徒は半分割され編入となり、やり場の無い憤りと共に血気盛んな男子学生らはまるで「お姉ちゃんのお古」を充てがわれたかのように、上履き制だった床に土足で乗り込み、校舎のあちこちを破壊して回りました。その後は学生運動の盛んな時代を迎え、近くの立命館大学や京都大学の予備生の如く、この校舎でも学生運動が盛んに行われ、最上階の講堂のバルコニーは彼らの熱弁が飛び交いました。
長年に渡って三年生による学校祭の目玉であった市中パレード「仰げば尊し」は象徴的で、戦後間なしには教師らを担いで称賛、学生運動盛んな頃には体制批判がテーマのデモ行進、その後山車などの装飾は巨大化し、我々の世代には社会問題がテーマを建前にほぼお祭り的仮装行列、、、と、他にも他校では見られない伝統行事や独自的な取り組みの数々が残されていました。いわゆる「生徒会」は「自治会」と学生の自治を唄う組織であり、一類、二類、商業科を一同にするミックスホームルームをクラス単位とし、週一度程度の「アッセンブリー」という時間枠に社会問題等に対して討論会や講演、映画鑑賞等の時間が設けられていました。また、日中は仕事を持って家計を支える若者らが学ぶ夜間の定時制もあり、京都の街中にあって大きな敷地面積はありませんが、緑豊かな御所と鴨川に挟まれ、常にオープンな校門と共に時代の風の出入り、空気の循環を保ってきた筈でした。
「自主自律」が掲げられた当時の先端たるエリート女子教育の場を経て、戦後の民主化と共に継承され続けた「自由な校風」はその自由の解釈に内側からも怠惰も伴い形骸化し、その他の公立校或いは他都道府県と同様、1960年代以降70年代後半まで全国で唯一高校三原則を実践し続けた京都において、とうとう外側からも消滅に向けた最後の仕上げ、校舎改築発表と共に理念の書き換えは元より、私服から制服化へと変更、夜間定時制の廃止発表など、着々と全ての歴史が一掃され、これまでの時間の堆積の全てを断ち切るかのようにも思えました。
つまりこれらの時代を経て、その時々で肉付けされた元名門女学校の校舎にはあらゆる時代のフェーズの残り香が染み付いていき、そしてまさにそれら全てが消し去られる機会とみるには明らかだったのです。
長い年月の中でも、誰もが共通認識として誇らしく思っていたのは九条家ゆかりの正門に並び、本館校舎の擦り切れた木製階段室です。
「女学生が袴でも容易に昇り降り出来るよう、段差が普通より狭いんやで」。実際には、昭和初期には既に教員以外は袴から制服を着用していたのですが、そう語り継がれた校舎の階段は、これまで無数の学生達が昇り降りしたことにより、ステップ板はいずれも角が取れて擦り減り、柔らかに波打っていました。女学校時代には「おから」で磨き上げ、戦後からは折々に油びきされ、決して今風なシャビー感を出すべく色付きオイルステンでは表現出来ない独特の風合いを放っていました。私は、せめてこの階段の板くらい残す事は出来ないだろうか、この階段を軸にすれば、誰か同じ思いの人と繋がる事が出来るのでは無いかとSNSで呼び掛けてみる事にしました。加えて、我々のいた頃から比較して悲惨な姿に急速劣化していた、踊り場に放置されたスタンウェイピアノの来歴を追い、修復出来る可能性や他校などの復活実績を調べながら方々に問いました。そして、たとえ耐震問題の云々を建前とした全面解体が立ちはだかろうと、この地で長年に渡って元気に育つ草木は本来全く関係無いじゃないかと考えました。かつての学友であった宮家の子女のお手植えによる敷地中心に高くそびえるヒマラヤ杉、その周りの、いつの頃からか「ウィーンの森」と称された中庭は、丁度解体発表のあった春に、目前の危機も知らず生き生きと花を咲かせ、春を告げていました。本館周辺には桜の木をはじめとした樹木が生い茂っており、これまで長きに渡りたくさんの在校生や卒業生らを物言わず健気に見守ってきたのです。本当に申し訳ない気持ちになりました。
これが、2013年から2018年に至るまで続くことになった、「残せない」の一点張りの隙を突く形から始めた校舎の保存活用運動の一番最初の動機です。写真という記録装置になど、とてもその全てを残す事は出来ないという、まさに背水の陣、諦めからの始まりでした。
以降、少しづつ同じ思いや疑問を持つ仲間を増やし、近代化建築としての価値は果たして無いのだろうかと方々に尋ねる中、「遺産的価値が非常に高く一体的に保全すべし」とする専門家による綿密な調査報告書が前年、実はその依頼主でもあった府教育委員会に提出されていたにも関わらず公表されていなかった事、いくつもの大学の建築や耐震構造の専門家の方々らの科学的根拠を頂いた上で、結局は単純な老朽化や耐震問題による校舎解体という話では無い事を突き止めつつ、様々な世代の卒業生や在校生を取材し、知り得たそれら全てを毎日公式サイトやSNSで発信し続けました。
日本建築学会近畿支部、そして日本建築家協会近畿支部保存再生部会と両団体から保存要望書が提出されました。一方、これらの提出を追うような形で逆張りに、鴨沂高校同窓会からは早急な全面改築による新校舎整備要望書が提出されました。やがてジワジワと、想像を遥かに超えた反響が集まり、ほぼ全てのメディアに連日取り上げられて問題意識は全国規模で拡散しました。ある意味では、順序は狂っているものの議論の場が遅ればせながらも開かれたとも言える状況にはなりました。
私たち側の表立った活動領域で得た事として、これら問題意識の高まりと共に繋がる事が出来た女学校時代の矍鑠とされた気高いご婦人方には、その当時の写真や資料の提供を含めた貴重な歴史物語と共に心強い励ましや勇気を頂き、知見を広げることが出来ました。建築家、軍事評論家、音楽家、老舗旅館の名物女将など、各界の大先輩方にもこの件があったからこそお会い出来、多方面で活躍される先輩達ならではの、愛校心に良い意味で塗れていない客観的視点に基づく物事の捉え方を通した母校についてのお話を頂くことも出来ました。国内で同様の建築物、特には学校建築の保存活用に尽力された様々な団体や個人の方に、その事例と取り組みについてたくさんの資料と共に教えを頂く事も出来ました。その後、在校生の演劇部たちはOBと共にこの問題についてオリジナル劇を創作し、大会を勝ち抜き多くの人に喪失への複雑な想いを物語に昇華して訴えました。仮校舎へ移転後も、空っぽのまま工事が止まった校舎で卒業式を挙げたいと願い実現まで貫徹した在校三年生らの粘り強い学校側との交渉に、世代を越えた同窓生同士としてのマインドの繋がりを感じました。専有グラウンドを奪われる事に最後まで教育委員会と抗った在校生保護者の方らや、この問題に深く働き続けた若い世代の卒業生とは、今だに形を変えた親交が続いています。
振り返れば、この活動を重ねた5年間は、私自身も知らぬままに掘り下げる事も無かった物語や、気兼ねなく議論が出来る仲間に出会う貴重な機会だったのです。
結果として2013年夏以降の解体計画は一旦白紙撤回、全面解体からの方針転換を得て、しかしながら幾つかの貴重な、二度と取り戻すことが出来ない文化遺産を失い、また当時の在校生と保護者が今後も切望した施設を失い、幾つかの建物と、移植されたいくつかの樹木は残すことが出来、スタンウェイのピアノは、歴史文化を物質面でも重んじると言説を変換させた学校側と同窓会の象徴として修復されました。
これらの写真群は、その後、得たものも大きかった一方で、その代償として失い、傷つくこともあまりに多すぎた活動に対し、その後あらゆる喪失感や消耗したエネルギーを取り戻す為、加えて私個人の社会生活を滞りなく過ごす為に封印していた、失った欠片たちによります。「卒業生によるノスタルジー」との狭義なレッテルを払拭し、可能な限り全ての歴史を繋いでいきたい。仮に愛すべき、というならば郷里である、歴史文化を重んじる筈の京都における文化活動としての位置づけであったと、抵抗を重ねた自分なりの記録とも言えます。但し写真表現というカテゴリーだけで括れば、幾つかは可能性を含んではいるものの、作為と無作為の融合もままならず、全体的には到底、そのものを表現しきれたとは言えない永遠の未完成写真群である事を認めざるを得ません。
象徴的な自然や人工物の破壊と消滅により新たな価値をもたらそうとする独善的な刷新、あるいは征服に対する結果としての肯定は、不可抗力の極みによって何らかをやむなく失わざるを得なかった人間社会に生きる人々の絶望的感情を真に理解を向ける立場にあるとは言えないのでは無いか。果たして、破壊と創造、過去と未来を物質的分断によって切り捨てる向きこそ今や前時代的かつ過去性では無いのか。そう定義し、いまだ個人的には痛みへの引き金となる写真ですが、これもその活動に対した自分なりの誠心誠意、やり尽くすまで表現したが故と、便宜上「活動」と称しているだけで実際にはその表現自体にも今もって違和感が拭え無い中、ある程度は時間の経過と共に客観性も保てるようになった今日、独りよがりのちっぽけな疑問と勇気の始まりを振り返りつつ、いずれ郷里を離れる置き土産という名の反省と共に再提示してみます。そして、多くの写真をもってしても、その僅かな期間ですらあまりにも多くの苦悩的な、あるいは欠くことの出来ない物語が存在し、それらによってもたらされた全ての関係者らの感情の機微を落とし込むことは出来ない、との断言も含め。
実存するものを滅する前に写真(或いは映像)にのみ託すというのは、保存活用における最も悲しい最終手段。写真は突き詰めた所で(三次元を二次元化する上にフレームに嵌め込むという)主観でしか無く、切り取った瞬間から過去である性質上、その記録行為こそ極めて個人のノスタルジーであり、公に発表する事でようやく、仮に共感、あるいは反感を生まない限り多少なりともの客観性は担保出来ません。またこうした観念的な面だけでなく科学的にも、写真というものはその誕生から記録と保存の試行錯誤を繰り返しつつも未だ万能で無く、むしろ視覚主義の極みとばかり利便性に傾いたデジタルデータ化以降は実際には実像すら無く、その多くは保存管理や機器そのもの及び開発・保有を提供する企業に命運が委ねられており、かつデータ自体は火災や水没どころか静電気という小さなエネルギーの接触でさえ失ってしまう危うさです。もってその保存の重みは各人の采配によってのみ委ねられており、検証材料としての価値は更に先の次元まで生きながらえるか、加えて加筆や可変も極めて容易になった現代では今後更なる希薄さへの懸念しかありません。
つまり、人の寿命よりも永らえ、その世代を越えて繋ぐ事が可能な、自然界は勿論、当時の人間の思想をもとに未来を託された人工物は今後も可能な限り大切に存続させ、それぞれの主観で様々な時代を経ながら平和の下に、視覚だけに委ねず、あらゆる感覚を喚起しうる実像として何世代にも渡って共用・共有出来る事について改めてその有用性、或いは歴史を振り返りながら過去の反省を問い続けると共に、更に望ましくは記録装置とその成果物によって過去と現在が照らし合わせられるなら、それこそ平和・平穏であることの有難い象徴であると、写真を扱う一人の人間として、ここに記したく思います。
そして、その為には象徴としてのお飾りに甘んじず、保全に向けた継続的な物質的あるいは精神的なメンテナンスと、記録のバックアップとして言語化する事も大切であり、これは長年に渡り関わる事もなく当たり前に存在するとして放置してきた、私自身への深い反省や戒めでもあります。
最後に。当時様々に陰日向で支えて下さった方々に、心からの感謝を込めて。
そして、多様な価値観や思想を有した人々が長年に渡ってひしめき暮らしてきた歴史の積み上げがあるが故、仮に瀕死状態でも多くの実像である語り部が残り、それゆえ万事物事の進みは遅く、一方で他者に過干渉はせずとも言動に対して実は寛容である、良いも悪いも誰の味方でもない、批判的精神の塊である地元京都へのぬぐいがたい愛着を込めて。
2026年3月。奇しくもニエプスがアスファルトを用いて世界で初めて像を残す事に成功した1826年から、写真による記録の歴史を数える僅か200年の記念と共に。
明治20年(1887年)に女学校の同窓会として設立された事を起源とし、明治42年(1909年)に社団法人化された共学化後の現在校名のゆかりでもある公益社団法人・京都鴨沂会の公式サイトに、当時校舎保存活用運動で共に活動した卒業生が中心となり、会館に眠ったままであった膨大な古写真群をデジタルアーカイブ化されたものを閲覧する事が可能です。極めて貴重な歴史資料として、是非皆様と広く共有される事を願って以下のリンクをご紹介します。
活動期間の5年間に渡り、それぞれにならではの視点で協働し、また互いの活動を時に叱咤激励しながらも尊重し合った、世代の全く異なる卒業生による、男女共学化以降の校風について研究対象とした論文。京都大学大学院人間・環境学研究科の発行する学術雑誌『人間・環境学』に掲載された「自由な校風という教育実践――京都府立鴨沂高等学校の学校行事「仰げば尊し」から」は、下記リンクから読むことができます。