新世界国際劇場の閉館によせて。
はじめに。「映画館」というものにまつわる全く私的な思い出を。
実母が父と離婚したのは私の誕生日の翌日、3歳になったばかりで全く覚えの無い、大人になって時々会う様になった実母による映像的な話が元となります。母親は兄と私を「東映まんがまつり」に最後の思い出に連れ立ちました。その幕間に「あんたが突然、小坂明子の『あなた』を大きな声で歌い出したんよ」「涙が止まらんかった」そうです。幼い頃の私は、何処でもかしこでもよく歌う子供でした。特に何か嫌な事への対処法として、例えば味噌汁に嫌いなネギが浮かんでると歌い出し、保育園に向かう道中で歌い出し、その度にその後家族の一員となった義母をイラつかせたのは覚えがあります。今さら歌詞をなぞると、自ら下した決断の後戻りできない後悔に苛む実母を、無垢な歌声と選曲で追い詰めたには違いないでしょう。
もう一つは、義母から宮沢賢治・原作の「銀河鉄道の夜」を観に行こうと後発映画館に連れ出された話。当時私は中学生で、義母による教育方針が功を奏して漫画に興味がありませんでしたが、別に心の拠り所を見出し夜中、或いは数日おきにしか家に戻ってこない予測不能な義母による家庭崩壊も呪縛力は健在にして断る余地は無く、昭和の残り香に満ちた古めかしい映画館に沈むしかありませんでした。未完の原作さながら空虚かつ透明感ある登場人物の存在感には、物事の答えの無さ、今風に言うなら「回避するしかない曖昧さ」に静かに泣きました。思い出す限り彼女と映画館に行ったのはこれ一回きり。何故「銀河鉄道の夜」だったのかも分かりません。
そして。いずれの映画館も、今はもう消えてなくなりました。
この様に、映画館とは個人的には物語を傍観する事で味わう「孤独の許容」を促す存在です。大手シネコンの台頭や視聴スタイルの変化に伴いレンタルビデオ店すら消滅、更に追い打ちをかけたコロナ禍、とよく言われる衰退が訪れる以前に生まれ育った世代である我々にも、もう既に子供時代から映画館の斜陽は始まっており、映画業界が元気いっぱいだった時代の過渡期にあって「映画館」を娯楽場と単に形容するには複雑なアンニュイさが伴います。故に本被写体である映画館「新世界国際劇場」がどれだけ古びれたように写ろうと、あらゆるバイアスが掛けられようと、それらの点には頓着しません。新世界国際劇場の物語を世代目線の狭い範囲で押し付けるのも本意では無い以前に、長い歴史の全てを実体験をもって掌握する者ではまさかありません。まず、断りを入れておこうと思います。
明治45年。かつての博覧会会場跡地に通天閣と遊園地が建設されたのを始まりとする「新世界」は、パリやニューヨークをモチーフに当時最先端をいく歓楽街として形成されました。そんな一角に建つ、昭和5年に竣工した芝居小屋「南陽演舞場」(建築家・増田清)が前身の建物は、昭和22年のジャンジャン横丁の開業や、大衆娯楽が芝居から映画に移った時勢に映画館へと転向され、高度成長期には労働者の街として栄える中、周辺にひしめき合った二番館、三番館なる映画館同様、洋画と日本映画がミックスされた安価な興行が多くの労働者たちに支持されました。二階席を有する一階と地下で構成される新世界国際劇場でしたが、昭和50年代後半から、地下は「新世界国際地下劇場」として成人映画が上映されるようになりました。
昭和5年竣工当時からの歴史と時代のグラデーションの全てを辿れる、近年すっかり様相が変わったとされる新世界にあって唯一無二な存在と言えるでしょう。
建築を専門とする写真家では無い私は、建物の構造を図面に起こす事が可能なほど細密さを表す立場にありません。建築家による作品の静謐さを的確に表現する優れた建築写真家を心から尊敬する一方、写真家の創作物まで昇華する技量を研鑽するつもりはありません。理由として、人の気配を排除するかの建築よりも必然によって建てられた背景や、積み重なる人々の痕跡が染み付いた内包物に関心があるからです。中でもその場の人間がそれぞれの悲哀を紡ぎながら大切にしてきたものにより心惹かれます。ただ打ち捨てられた廃墟には興味本位に踏み込む事はありません。この様に、曖昧な余所者にも介入の余地があるならば、慣れ親しまれたが故に見損なわれた構造や色彩の美しさを視認しつつ、その場を愛した人達とどこまで同化出来るか、とどのつまり個人的な視点でしかない写真というものが、場を熟知した人々と通う何かまで辿り着けるか。誤り無く出来る限り丁寧に読み取ることで、失う事の要因でもあるこれまでの無知と無関心を詫び、私の中の好奇な視点が完全に削げるかどうかが、建造物の撮影にかかり大事な要素となります。
要するに。この場を愛した人に近付くべく、自分もこの場を敬愛出来るか。その長い歴史のほんの僅かな時間を建物を通して共有したに過ぎない後ろめたさに、どう折り合いを見出すか。
切り取った写真が、今はもうこの場に居られなくなった人達の忘れ形見にまで至れるか、関係外の人々の琴線に触れられるかは、成し得たとしてその次の段階なのです。
撮影3日目の、恐らく立ち入るのには最後の機会にして初めて入った女子トイレで、ようやくこの映画館を読み取る糸口に出会えました。
青いタイル張りの手洗い場に貼られた、お別れの言葉を綴った手紙。まるで国語の先生の板書のような筆致は、映画館へのこれまでの感謝と共に、場を共有した人々に向けて鏡を磨いた事が書かれていました。鏡の前には造花のミニブーケ。百均にでもあるような造花に心惹かれ救われたのも初めてだったし、きっともう二度とこんな感情は生まれないだろうとも思いました。
3日目にしてようやく、映画館の支配人の方とタバコをきっかけに少しお話しすることが出来ました。支配人の吸うタバコの系統は私の好みと似ていて少し盛り上がり、ポツポツと、映画館のお話が語られました。あたりにかつて多く居られた日雇い労働者の雨露をしのぐ場でもあった事、「何人か、眠ってそのまま亡くなられた人も居たよ」「その後、ご家族がやって来て、何処の席によく居たかを尋ねられて、線香あげられたりね」「そんなこともあった」。
たったこれだけのフレーズで、無数にあったろう人生模様が膨らんでいきます。ネット上に散見する「誰もこの映画館で映画なんて見てないよ」と言う言葉は果たして実際のところを私は知りようもありません。ただ、館内を徘徊して痕跡を探し回る私も同じ。それが束の間、自分を受け入れてくれる相手なのか、もはや誰も居なくなった館内に残る物語なのか、だけであってと気付くのです。
「またもう少し、お話をお聞かせ願えませんか」と問うと、支配人は「この場所であったらね。どこか他所でだとリアリティも無いしさ」と仰いました。
限られた時間と背裏に、恣意と隠喩が交差する。あらゆる人々を許容した場所。
この街と人を語る、切なる記憶の装置が消えようとしています。
2026年5月も終わる頃。
注釈)これらの写真群は、新世界国際劇場閉館の後、大阪府ヘリテージマネージャーによる建築家・増田清の作品である近代建物調査に同行し撮影が叶いました。掲載許可を頂いた関係者の皆様には心より御礼申し上げます。
参考資料)港町キネマ通り/新世界国際劇場 http://www.cinema-st.com/classic/c049.html
新今宮ワンダーランド/新世界の古く新しき世界 娯楽の街、新世界100年 https://shin-imamiya-osaka.com/feature/005/