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愛すべき地元のシンボル。

先日。ちょっと所用あって京都大学吉田寮へ。

子供の頃は京大農学部の北側辺りに住んでいた。
両親が中古で買った、元・下宿屋の一軒家。引き継ぎで1年だけ下宿屋を営み、終えて家族で暮らすべく改装中には、押し入れの中、部屋の隅、屋根裏に残る学生さんらの置き土産を紐解くのが面白かった。
農学部の羊や馬術部の馬が見たくて、近所の子らと京大構内はよく散歩した。逆に家の周りも京大のお散歩馬が、アスファルトに蹄を響かせていた。まさに大学を中心に形成された街。背後には吉田山。さらに背後には右大文字。山裾に広がる普通の庶民の家々に、高級住宅街と被差別地域が京都らしく隣接している。公設市場、お風呂屋さん、安い定食屋さん、居酒屋、古本屋さん、木造アパート、下宿屋、大学の先生らが暮らすお屋敷群にそうした人らが通うちょっとハイクラスのお店・・・実にごった煮な、インテリと物騒とリベラルと矛盾が、絶妙のバランスで共存する街。
家のすぐ先にも古式ゆかしい日本家屋のお風呂屋さんがあって、毎晩学生さんが向かうのを勉強部屋の窓から眺めていた。難しい哲学書か詩を音読する人、オペラを謳う人。時にはパンツを頭にかぶってランニングする人。子供にしてみたら実に訳のわからん人らが通り過ぎてゆく。でも、近所の大人はそんなのは慣れっこで、年寄りは子供に「ぎょうさん勉強ばっかり、してはるからなあ。学生さんは」と言って、なんとなく納得させた。

中学を卒業後は高校もご近所エリア。高校から伸びる荒神口通から鴨川を渡り、カギ型に繫がる近衛通を東に行けば京大。昔、学生による暴動があったらしい鴨川に架かる荒神橋も、高校生には憩いの場。既に時代は変わって学生運動なんて伝説の彼方で、その昔は大騒ぎだったらしい百万遍の交差点も、かろうじてアジテーションめいた手描き看板が京大の石垣にポツポツ掲げられるのみ。それも自分が高校生の頃に「麻原彰晃氏、来る!」なんて、あの顔を大きく切り抜いたポスターがあたり一面覆い尽くしたりして、なんとも言えない風景に染まった瞬間もあったけど、当時は名前も正確には読め無い頃の話。あの、ぞわぞわとした感じが何だったのかが分かるのはそれから数年先の事で、時はちょうどバブルの最中。家もたった数年で買った値段の3倍以上の値がついたらしいけど、そう、あたりの風景が変わる事は無かった。
高校に通うのに毎日、京大エリアを自転車で駆け抜けると、西部講堂、学生集会所、熊野寮、あるいは鴨川から、吹奏楽や軽音、演劇部、応援団の、使い古された自由のニオイを発した音が撫でてゆく。立派な冠に、お世辞にも洗練とは言い難い雰囲気。頭良いって良いなあ、自由って良いなあという羨ましさの反面、サッとよぎる「でも、なんかダサいねんな」の突っ込み。それはそのまま、まるで兄弟分みたいな校風だった我が高校にも繫がって、どこまでも同じ空気の中で生きているような感覚だった。馴染んでいるのに、異質感。極めて近しい存在で、でも絶対的な距離があるのはどこか、歳のずいぶん離れた自分の兄の存在にも似ていた。たしか庭の離れに籠って大量の本に埋もれていた筈が、家を出て時代にどっぷり感化され、全身ヒッピーファッションに身を包んで小さい私の前に再び現れた、兄に対する微妙な気持ち。古い。似合ってない。汚し方にセンスを感じない。時々台風のように現れて家族を引っ掻き回すくせ、ちょっと子供心をくすぐるお土産なんかくれたりする。言っても、兄貴だしなあ。そんな感じ。

それからしばらくして、諸事情でこの地を離れる事になり、いつしかあまり立ち寄る事も無くなった頃から街の様子も変わっていった。
木造アパートは立派なオートロックのワンルームマンションに変わり、近所のお風呂屋さんも廃業した。雑然の中にも会話という楽しみがあった公設市場は蛍光灯もピッカピカのスーパーに。日仏会館は眩しい位に真っ白けになって、山中先生のお陰か大学病院辺りも凄い立派な建家になった。そしてもう、建て替えられてしまった学生集会所からは、防音もばっちり、吹奏楽の素敵な音漏れも聴こえて来ない。そうやって、吉田寮も周りからじわじわと風景が変わってゆく。
ふと、交差点を行き来する大学生を見ると、かつて子供の頃の勉強部屋から見かけた真面目におかしな人なんて、おおよそ歩いていない。みんなシュッとしてこざっぱりして、真っすぐ賢い学生さんらなんかな。

吉田寮と言えば、まるで都市伝説のような本当か嘘か分からない話が尽きない。だからそういうのに憧れる人、忌み嫌う人、懐かしむ人、ただ小汚いものにしか見えない人。色々居るだろうと思う。
築100年を超える現役の、木造による学生寮。時代毎の価値観によって塗り替えられたイメージづけをあえて横に置いて、建物という観点で捉えると実はとてもユニークだ。部屋から溢れる、レイアウトセンスの無い住人達の置物群にフォーカスせず、廊下や階段の建材に目をやれば、建てられた当初の気品や格式の高さがその輝きから鈍く浮かび上がってくる。二次元で見れば陰湿そうかもしれないけれど実際に訪れるととても換気が良く、それはその昔に流行った疫病が寮内で蔓延しないように、構造がとても考えられていたから、なんだそうだ。
いずれにせよ、よそからすればちょっと、意味深イメージの吉田寮。その寮生に「なんでここの暮らしを選んだの?」と尋ねたら、「実家でずっと猫を飼ってて、猫の居ない生活が想像出来なかった。ここならみんなで猫が飼えて、いいなって」と、のほほんとした答えが返ってきた。またある寮生は「動物の世話をするのが好きなので」とも。実はそんな風に、彼等のような若者に巡り巡って受け入れられていたりもする。
面白い。中庭ではニワトリや山羊などが飼われていて、エミューも居たけど先頃食用にされたらしい。猫は廊下の餌場とそれぞれの部屋を行ったり来たり、のんびりとした自由が保障されている。中庭の鬱蒼とした高い木々の足下は、全くと言って良いほど雑草が無い。「山羊が全部食いつくしてしまって、ここを不毛の地にするんですよ(笑)」。

私にはもはや、例えば京大の吉田寮は、もう何十年も何百年も、ずうっと立ってる街中の象徴的な木のように見える。そこに馴染んで、誰もたいして気に留めず、けれど人間によるちっぽけでタイトなサイクルの時間軸を刻んでなんかいない。体制が違った頃も、空にブンブン飛行機が飛んだ頃も、戦後の慌ただしさも、若者の祭りも苦悩も、みんなみんな、何だって全部知っている。そしてそれらの時の流れについて、ただ感傷や郷愁の対象だけに留めない。何故ならずっと、昔も今も同じ場所で生きているから。だから色々な人間がその足下で暮らして、また去って、またやってきて本を読んだり寝転がったり、恋人と寄り添ったり友達と談笑する。そんな場所。
と言っても、街中に存在するから世間には色んな人が居て、落ち葉がうっとおしい、日陰が物騒だ、視界が悪い、虫がつく、切り倒せ、なんて言われたりもする。けど京都って確か、好きと嫌いが混在してて、みんな文句だけ言うけどぐずぐずして一向に話が進まず、またそれも、本来らしいんじゃ、なかったっけかな。
「まあ、そう目くじらたてんと」。
吉田寮という名の巨木はどっかり根ざして笑ってる。
だけど、これからはちょっと、気にかけて見つめてみようかなと思う。
脇を見て、どこか違う方向を向いていたらふと、この世から消えてしまう、なんて事の無いように。森の木も街の木も、実は人間が介入して、時に傷んだ個所を取り除いたり手当したり、落ち葉の世話をしているように。
そうやって、みんなにこれからもずっと、大切に思われるように。

谷口菜穂子写真事務所
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