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世界で一番悲しい話。

 昨今ニュースで見る、親と子供の悲しいお話について。

〜突然に長くて重くて真面目な話してすみませんの前置きとともに。

 

 ネグレクトやモラハラなどの言葉はおろか、児童虐待という言葉も、また児童相談所という存在も、今日のように誰もが知るほどでなかった昔にも、勿論このような問題は、あった。まさか、ここにきて増えたわけでは決して無い。

 もしかしたらそれぞれ自身が子供だった頃、友達が同様の問題の渦中で、そばにいても気づかなかったか、あるいは当事者本人が頑なに打ち明けなかっただけかもしれない。

 それくらい、本当は既に遠い以前から身近にあった話。

 

 子供にとって、家の中、親という存在はとてつもない。

 フォーカスされる体罰等、目に見えてやられる事自体も勿論だけど、親の二面性という秘密を共有させられること、それを「決して口外するな」、「お前のためを思って」、との親からの圧力と支配は、世界中の誰に脅されるよりも一番に恐怖で絶対的だし、何より、子供は良い親を装う親のイメージを壊したくない、他者にも、また自分の中でも認めてしまえば全てが絶望になるから、いま起こっている事はまるで寝ても醒めても悪い夢、無かったことにしてしまおうとする。

 そうした日々が積み重なると、やがて虐待が特別でなくなり、たまの気まぐれ的な優しさに触れるとそれが逆に特別になり、今度は捨てられる、見放されるという不安が恐怖の頂上になる。

 次第に、だんだんと乖離してゆく。

 責められ暴力され打ち捨てられる自分を、自分の体から離れ、終わるまでぼんやり見て居るような。

 それはまるで、他者が状況を壁向こう、画面越しから傍観して居るように。

 

 そんな風に、常に怯えて顔色を伺う心身共に弱った姿、萎縮するあまり失敗を重ねる姿、あるいは機嫌を損ねないよう常に微妙な作り笑いを浮かべる子供らしくない姿に、恐らくいじめの構造にも似て、親はその暴力性を更に増幅させる。目の前の我が子の弱々しさに、社会の中の自分を重ねるのか、あるいは自分自身が子供だった頃にシンクロするのか。

 「同属嫌悪」の究極かもしれないが、多分、児童虐待に至る心理と構造を、他者が理解する上での糸口になるのではないか。

 

 よってただ、親が怖いだけの理由じゃ無く、子供が周囲に言えない、助けを求められない理由はつまりそれぞれに極めて深い。

 まず、何はともあれ子供だから、自身の感じることと、それらを整理して外側に伝達する言葉への置き換えがなかなか合致しない。それどころか、何十年経って多くの言葉を身につけて尚、あれは愛だったのか、いや違う、愛であったと思いたい、どうやら違う、と結論も見出せず混乱したまま真っ向から過去を語れない。ましてや、世の中の多くの家庭環境はそうではないことが一応前提だから、豊かで穏やかな世情になればなるほど周囲との差が激しく、他人に現状を伝えるのに途方に暮れる。

 仮に今と昔を比べるなら、周囲との差の大きさかもしれない。そして身体及び性的な暴力、無関心や育児放棄に加え、思想や理想の強要など、バリエーションも豊富となった。

 

 そもそも、子供の頃の我が身に置き換えてみたら、親以上に信じるられるものが他に何か、誰か、あったろうか。

 それでも残りわずかな希望を持って、溢れかえって子供から他者に現状が漏れ伝わってしまった時、打ち明けてしまった時、今、世間を騒がせている例えばあの父親のように、自分の行っていることの火消しに躍起になる親の心理が猛攻する。

これは躾の一貫だ。私の子供には虚言癖がある。被害者のフリをして周りの関心をひきたいだけだ。と。

 こうした言い繕いは、そのレッテルを貼られた子供にも向けられて、お前の言葉なんか誰も信じないぞ、そうだ自分は悪い子だ、悪魔の子なんだと生きる確信と希望を完全に喪失させる。

 ただし、他者に打ち明けるというリスクは充分すぎるほど、誰よりも子供の側で既に分かっていた話でもある。

 

 親の心理の何がそうさせるのかは私は人の親では無いので想像するしかない。ここに至っても周囲には子煩悩、子を愛する親である姿を外側に向けて演出し続けたいのは何故か。本当は自分自身の未解決トラウマなのか。あるいは。。。

 ただ、こうした虐待を直接行う保護者にも、黙認し、子供と共に逃げようとしない(出来ない)結果加担者になる片割れにも、みんな誰しもかつては子供時代があって、おおよそ根深い、根深すぎるこれまでの人生の中での経験や関連する問題を抱えている。多分それはそう、簡単に原因を取り除いたり、解決に至る療法のようなものに、既に大人になってしまった彼らが出会うには困難だろうとも、果てしなく思う。

 一方、法制度がどうとか、専門的な知識を持った人材や人員を増やそうとか、社会の制度づくりで解決するとか、勿論整うことは緊急性を要した必須だけど、そんなこともそう、簡単では無いだろう。また、こうした問題に関わった被害者以外の登場人物の全てをあげつらって、批判して自分はこのような大人とは違う、と線引きするのも決して違うし、責任のなすりつけ合い劇場を傍観してるのも違う。

 誰が悪い、で決着のつく話では無いから。

 

 しかしはっきり言えることは、かつて子供だった頃の自分も、そしてあの頃辛い家庭環境を生きた友達らも、命を落とさず、今生きて人を信じ、過去を許し、また世間への感謝の気持ちでいられるのはほんの僅かながらも、目の前の子供の声を信じ、心理を汲み取り、それぞれの立場で出来ること精一杯で見守ったり並走してくれた大人や友達の存在があったからだと断言する。自分たちの体力、気力がたまたま強かったんじゃ無い。周りにほんの僅かでも、強固になって本来の意味での親という保護者の役割を補完する存在であろうと居てくれた人たちあっての事だ。

 

 あまりに複雑過ぎてわからないながらも、ずっと寄り添ってくれた同級生。

 我が子から話を聞いて、こっそり家に招いて毎度ご飯を食べさせてくれた友達のお母さん。

 時間をかけて粘り強く話を聞き、絶対に秘密を漏らさなかった学校の先生。

 一生恩返し出来ないけど、せめて裏切れないからちゃんと生きようと思うほど感謝してる。

 かつて深い傷を負った友達らはみんな、痛みを二度と繰り返さない立派な親になった。

 

 私のような小さな世界の視野しか無い市井の人間には、諸々、大きな世界に渦巻く問題の中で、一番に憤って辛くてならないのが児童虐待にまつわる話である。小さな子供が、長い時間に渡り、どんなにどんなに辛かったろう。ごめんなさい。多分、戦争にまつわることとか、世界経済とか、政治家の暴言とか、大人同士の不条理とか、どんな、何よりも腹が煮える。外側に向けて立派な活動をしてる大人だって、目の前の我が子の空虚に気づいてなければ根幹が無い。

 しかしながら、根本解決はそう簡単では無くとも、周囲に、ごく僅かでも真っ当な人間が揃って、極めて人の心のまま、ただ反射的、直感的に、子供を大事にしよう、守ろう、信じよう、救おう、手を差し伸べようと僅かでも動けば、親は止められなくてもその子供には未来を用意することは出来る、という事もあるというのをどうか、出来るだけたくさんの人にわかって欲しい。

 緊急の場合、遠い先には生きていれば御伽の国があるんだよ、というふんわりとした夢の話はまるで無力であり、自分以外の誰かが彼らを助けてくれなきゃね、という悠長な時間も勿論無い。

 そして、今の時代は個人が他人様に介入するにも難しいよねえ、なんて時代のせいにして嘆いてばかりでは、決して助からない命と、今も昔も変わらないままひきづられてここに至る問題がある。

 

 ともあれ。この上ない不条理を、小さな体で受け止めるしかない子供達が身近に居れば、どうかそれぞれに出来ること、何か。

 

 

 最後に。子供の頃に出会った、児童虐待関連の忘れざる資料として。

 

「おかしな金曜日」(国松俊英・著・偕成社・1978年作)

生まれて初めて「児童相談所」と言うものがあるというのを知ったのがこの児童書。親が子を置いて団地を出てゆき、買い置きされた食品の全てが無くなって、最後に兄弟は施設に行くという物語。あらすじはシリアスだが文体は柔らかで、兄弟と、支えた友達らの心象が染み入る。小学生以上が対象の読み物。児童書の扱う内容の拡張に挑んだ、恐らく最初らしい。作者はどんな人に読んでもらいたいと思って書いたんだろう育児放棄とアンハッピーエンディングというタブー。どうやら、今も入手できる。

「鬼畜」(原作・松本清張・1957年著・1978年映画化)

家庭で生徒がとんでも無いことに巻き込まれて無いか、先生がみんなの様子をそっと知るためにホームルームで見せた映画。担任の独断で学校公式で無く、他クラスでは上映されてない。ビートたけし&黒木瞳のドラマ版よりも緒形拳&岩下志麻出演の映画版は、情景描写から何もかも真にこもっていて、今だ再び見るのに相当勇気がいるほど。実際にあった事件がベースで、父親に殺害されかけた子供が、最後まで親である犯人を庇う姿。そのシーンに、虐待を受ける子供の心理全てが凝縮されている。

 

 その後大人になってから出会った小説。

 

 ◉「悪童日記」シリーズ三部作(アゴタ・クリストフ著・1986年作)

作者はハンガリー生まれでフランスに亡命後、母国語でないフランス語で書かれたもので、物語に登場する子供らのたどたどしい感情表現にリンクする。そのたどたどしい文体そのものを物語の根幹と捉えた堀茂樹さんの匠な日本語訳も震える。世界大戦末期から戦後にかけて、若い母親の元から祖母に引き取られた兄弟による劣悪環境下での生き様物語。少年の日記という体裁で語られていて、その日記の鉄則として事実だけを書き記し、少年自身の感情は決して吐露しないとのルールを自身に設けている。

私の知る限り、児童虐待関連でこれだけ細やかで残酷な心理描写、かつ巧妙に書き上げられている小説は、多分出会った事がない。

 

 ガイドラインやマニュアルなんて、無くても。

 そして知らない人は、知ることも、何故を考えることも出来る。

 愛せない悲しい大人と、愛されない悲しい子供の存在を。

 

 みんな、生まれた頃には想いを持ってつけられた名前はある。

谷口菜穂子写真事務所
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