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思い出の本〜ブックカバーとその中身。


〜はじめに。感染病と、ここ数週間、SNS上で見かけるようになった、ブックカバーチャレンジに寄せて。

 感染予防対策の家篭りに向けて、あるいは外出も控え、外食も控え、何かを見た、どこかに出掛けた、何を食べた、誰と一緒に居た。。。なんていう、日常の出来事を発信する(あくまで平和で攻撃性のない)SNS向けのコンテンツを失った私たち。
 それらに変わってほんの一時的なブームに終わるだろう、幼少期の写真をアップするとか、好きなアルバムをアップするとか、色んなチャレンジもののチェーンメールを見かけるようになった。そんな中の一つである、お気に入りの本をアップする、ブックカバーチャレンジ。
 ほぼ同時期に複数の方からお声掛けを頂き、ルールである1週間7冊分もすぐに選べたが、結局、色々思うこと(思わされること)があって、手が止まってしまった。
 それから数日以上経って、やっぱり考え直した。
 お声をかけて下さった方らには、機会を設けて下さって嬉しい、という自分側の気持ちと、つれない返事だけでお応えしないのもどうかだし、もう、近年はすっかり視覚主義に進んでしまって本も随分読まなくなったけど、本が好きだったこと、本に救われたこと、本にまつわる思い出もいっぱいある。それは違いない。
 ので、ブックカバーチャレンジの、いくつかの、本好きからしてみたらややヘンテコな縛りやルールは度外視して、べったり、ねっとり、実にパーソナルだけど1冊の本にまつわる思い出話に加えて、ネタバレしないレベルでふんわり、その本がある程度、読んだことのない人にはちょっと分かるよう、どんな内容なのかも書き記してみたいと思う。。。と、解釈し出したらあれこれお話が過ぎて、文字量的にはSNSの範疇を越えてしまうので、見る人見ない人、読む読まないの受け手側の受け入れ範囲と自由度が多分、こちらの方が気楽だろうと考えて、個人サイトの、ほぼ独り言要素が強いブログの方に書き残してみることにした。

 

 ちなみに、これもルールによればまた誰かお友達などを紹介して、回していくというのもやめておこうと思うが、最近、身近で本にまつわるお話でとても嬉しい事があって、本当なら是非とも紹介したい、繋げたい人、というか取り組みがある。
 どうやら、長年描いていた夢みたいだが、私が以前、写真専門学校で教えていた頃の教え子だった夫婦が、故郷の田舎暮らしの中、とっても可愛くて手作り感溢れる、主に地域の子供達に向けた移動本屋さん及び図書館をやり始めた事だ。
 まだ、こんな時期なので越境して見には行けてないし、SNSでしか近況を伺うことが出来なくて残念なんだけど、子育ての中で彼らが、自分たちも、我が子も一緒に楽しみながら、他の子供達にも色んな本を介して集って、そこで幸せな時間を過ごしてほしいと願うその優しい心が感じられて、気持ちだけはいっぱい、とても応援している。
 今はまだ活動範囲を限定して、小さく静かにオープンしている様子だけど、行政運営の図書館も、世間の大型書店も自粛クローズの中、学校も行けない、外でもあんまり遊べない、狭い空間の二次元映像画面の前に居るしかない、けれど必ず未来がある子供たちには、今こそ、そしてこれからも、必要とされる活動なんじゃないかと私は思っている。
 もう少し、また再び普通の日常が戻って、彼らの活動も広く告知出来る状況になったら、また改めて、情報をシェアしたいし、皆さんにこんな素敵な移動図書館があるっていうことを、是非とも知ってもらいたい。


 またもしも、児童書や絵本など、もう家では読まなくなったけどとても素敵な本だったから処分するのはしのびない、出来たら誰かにバトンを繋ぎたい、と思ってくださる方がおられたら、是非、その本を彼らに寄贈して下さったら本当にありがたいです。まずは私の方まで、ご連絡いただけましたら。

 

 では以下。とても長いですが。大切な本と、それにまつわる大切な思い出と共に。


ブックカバーその1

「悲しみよこんにちは」

フランソワーズ・サガン/著

 1954年に発表された、サガンが18歳の時にデビューした作品。17歳の主人公と、男やもめの父、その愛人三人で過ごす夏の別荘での出来事が描かれている。

 ちょうど読んだのは私が17歳の頃だった。ほぼ同い年の作者による作品には、同世代女子ならではの、その年齢がこそ発する未熟な美しさと共に、自由で生意気で自意識過剰で残酷で、その背裏にはまるで誇れるものが無い不安定な心情を、私小説でなく物語として成立させたところに大きなショックを受けた。

 

 この頃の僅かな期間、ブラックミュージックに傾倒するあまり取り憑かれたように読み漁っていた山田詠美の著作の中に「蝶々の纏足」というのがあって、この作品は「悲しみよこんにちは」に通じるものがあると感じ、しかしながら、大人が客観的に、未成年のていで語る物語よりも、やはり作者が主人公と同年齢であればこその生々しさ、凄みや親近感、オリジナリティと軍配は圧倒的で、一気に山田詠美熱が失せた。

 今から思えば、自分たちの年代という、一瞬で終わってしまう危うい領域に、憧れつつも、生きるウマさみたいなものを感じる大人に対し、なんとかこちら側には踏み込んでほしく無いというささやかで、ありがちな嫌悪や抵抗だったのかも、と振り返る。

 

 先日読んだ短歌の評価指南をする本の中に、「主観的な形容詞を安直に多用すべからず」と言った指摘があった。なるほど、これは自分にも永遠のテーマで、自分の表現世界の中で、どれだけ主観に逃げ込まないかをいつも悩んでは未だ、だいたい失敗している。

 「悲しみよこんにちは」も、恐らくは主人公に同世代感情の肉付けはしつつも、全ての話は勿論架空の出来事であり、それを自分と同じ年齢の人がもう既にやってのけている事に愕然とし、それまで文章というものを書くのに全く苦労した事がなく、音楽を目指す一方でこっそり、物書きになるのも良いなあ、などと安直に考えていた夢は、この本と出会って脆くも崩れ去った。

 

 それから数年後。年上の友達に、当時溜め込んでいた自作の詩集を読ませたところ、その友人が放った言葉も決定打だった。

 「なあちゃん。月が空に浮かんでるとするやろ。その月を見て、わあ綺麗、って言うてしまったら、もう月は終わってしまうねんで」。

 主観から生じた観念に、大いなる観念で返されたのには腹が立って仕方なかったけれど、それは要するに全くの図星だったからに他ならない。

 その友達は、今も永遠の親友の一人である。


ブックカバーその2

「レイモンド・カーヴァー傑作選」

レイモンド・カーヴァー/著

村上春樹/編・訳

 アメリカの作家であるレイモンド・カーヴァーの短編小説を10作と、エッセイと詩をひとつづつ、村上春樹が選んで訳して1ダースにまとめた傑作選。

 高校3年間と卒業して暫く、おおよそ4、5年に渡り村上春樹にハマって友達に貸し、その友達もまた村上春樹にハマって教えてくれたのがこの本である。

 アメリカの、ほんのミニマムな人々の生活の中の、乾いた、虚しい、生温かいショートムービーのような短編の数々で、かと言って人間ってやっぱりいいなぁ、なんて安直なオチも無いのがリアル。

 その後は村上春樹の訳した本をいくつも読んで、ああこの人は本当に、作者を愛してるんだなあ、から、こういう作品群に影響を受けたんだなあ、と変換を遂げ、最後は、村上文学と言われるものの作品のオリジナルはここか、と見渡して、村上春樹から無事に卒業した。

 

 中学三年生の時の担任で、美術教師で生徒会の担当でもあった先生が、ある時職員室に私を呼びつけて、「うちの奥さんがな、この本の登場人物とお前がどこか似てるって言うんや」と、こっそり手渡してくれたのが村上春樹の「ノルウェイの森」だった。これが、最初に出会った村上春樹の作品である。

 先生の奥さんも他の中学で国語教師をしているのは知っていたが、会ったことも無いのでどうも、先生の家で、いつも私が話題に上がってるんだろう事は想像出来た。

 こう言うとまるで私は問題児のように思われるかもしれないけれど、私が問題児と言うより、当時は私の家庭が問題家庭だっただけで、時々弁当も無ければ購買のパンを買うお金も持って無い様子を伺っては、こっそり愛妻弁当をくれたり、家で全然寝れてなさそうだからと美術室の準備室を解放して学校にいる間は好きにさせてもらったり。。。と、あれやこれやと気を使ってもらった。が、当の本人は一体何がどうなってるのか事情を話さず、ただただ日々落ちていく一方なので、先生は困り果てて、どうしたら胸の内を開いてくれるか、色々策を練ってもくれた。その、一環でもあったのが「ノルウェイの森」だったんだろう。

 「ちょっと、中学生には早いかもって、奥さんは言うんやけどな」と言いつつ、結局、登場人物の誰に似てるのか、と言うのは最後まで教えてはくれなかった。

 今やあの本の中では一番異質で元気キャラなお姉さんに似てなくも無い程図太く生きているが、これも多くの周囲の人と共に、先生のおかげでもある。

 

 村上春樹の本は、多感期の頃数年に渡って関連本含めてあれこれ読んだので、本を引き金に思い出される個人的話も他に多い。全てを書くとそれこそ下手なエッセイの12本ほど書けそうなので、これくらいで留めておく。


ブックカバーその3

「ねむり姫」

澁澤龍彦/著

 フランス文学者で小説家、評論家の作者による幻想小説(短編集)。遺作となった「高岳親王航海記」か「ねむり姫」かで迷ったが、澁澤龍彦の著作で最初の出会いがこちらだったので。

 19歳くらいの時に友達から教えてもらった本で、それまで自分はほぼ、現代小説しか好んで読んで来なかったのにも関わらず、初めて体感した、時空を越えた世界観にすっかり魅了されてしまった。

 

 一体、本の魅力ってなんだろう。

 自分の家の一番居心地の良い場所で開く。あるいは混雑を極めた電車の中で小さく肩をすぼめながら読む。何処でもどんな時でも、またどんな境遇、あるいは環境下でも、その世界観に没頭することで、何処へでも、何処迄も飛ぶことが出来る。行ったことのない異国を巡ることも出来れば、全く関わりのない他人の人生を垣間見ることも出来る。知るわけのない遠い昔を体感することもあれば、誰かに恋い焦がれたり、思いやったり、悲しい気持ちを非現実の中で味わったりもする。

 仮に読んだ時には理解出来なくても、なんとなく心に引っかかっていれば、またしばらくたって読み返すと心のタイミングに合う時がある。逆に、読んだ時から数年、数十年経つと、あの時興奮した感覚って、一体何だったんだろうなと時間の経過を静かに憂う時もある。

 

 一方、本を介する醍醐味ってなんだろう。

 これまで興味の無かったあるタレントが新聞の書評欄に新刊に対する感想を述べていて、それがあまりに素敵な文章で、改めてその人が無類の読書家である事を知って嬉しくなったりもする。もっと身近な所では、友達と本の貸し借りをしたり教え合ったりすると、まるで秘密の価値観を共有するみたいで楽しい。偶然同じ作家や好きな本が一緒だと、それもまた嬉しい。知らない本を教えられたり、貰ったりしてそれが自分の中でぴったり寄り添うと、相手への敬う気持ちも更に増す。これ、好きなんじゃないかなと思って、自分に選んでくれただろうことも嬉しく、本を介して互いの気持ちを想像し合う。

 

 この「ねむり姫」や「高岳親王航海記」を教えてくれた友達とは、お互い仕事も軌道に乗って、近年はまず会うことも無く、SNSの繋がりもあえて無いので互いの側面的な日常は可視化し合っても無い。今はそれで良いと思っているし、友達もそれが良いと思ってるだろうと想像している。

 がしかし、特に私の側が生き方の模索に寄り道ばかりしていた頃は、よく会って、色んな話もした。と言うより、ほぼ友達から色んなものや、捉え方のヒントなどを教えてもらった。

 そう言えば、澁澤龍彦は生前は近しい人から、「わからないことがあったら、渋澤に聞け」と言われるほど博識で、周囲から信頼される存在だったそうだ。あの頃の私にとっては、友達もそういう存在だったのかもしれない。

 今でも、忘れられない瞬間や言葉はいくつもある。

 「神様なんて、紙くらいの存在で、良いと思う。丸まって、道端にフワッと落ちてきて、拾わない人は拾わないし、拾う人は拾うってレベルのもの。クシャッと丸まったのを開いてみたら、なんか、そこにはちょっとヒントのようなことが書いてある。でも、それは読んでもすぐさまポイと捨てて良いし、気になるなら手元に置いててもいい」。

 当時よく行った、ロケ地だけは最高に良い、時代がちょっと流れて物悲しい空気感が漂っていた(だからこそ何時間でも遠慮なく居れた)琵琶湖畔の喫茶店で、友達は言った。

 リア充。

 あんなにどうでも良いけど割合核心めいたこととかを長々と話せたのも、身を乗り出して聞いて入られたのも、時間や、背負ってるはずの責任も忘れて没頭出来たのも、その時、その年齢であればこそ、だったのかもしれない。

 あれからもうかなりの時間が経過した。その途中途中で何度も、一瞬でも話を聞いて欲しい、見解を参考にしたい、今何を見てるだろう、何を感じているだろう。そんな山をいくつも越えて、口を塞いで目を閉じていたら、やがて平穏がやってきて、静かに相手を思う心地というのはこういうものかと分かるようになってきた。

 

 「お互い、仕事がなんとなく見えて、一段落ついて、ちょっと疲れたなあと思った頃に、しばらくぶりに会って、話してたりするやろうなあって、なんか想像がつくなぁ」。

 そう言い合ったけど、確か想定年齢は40代後半頃。

 しかしそれはまだ、実現していない。そんな日が本当に来るのかも、分からない。


ブックカバーその4

「明るい部屋」~写真についての覚書

ロラン・バルト/著

 フランスの哲学者で批評家である著者による遺作にて、写真というものの本質を明証しようとした写真論。歴史的な写真家による作品を始め、全く無名の誰かが撮ったプライベート写真に至るまで掲げながら検証し、がしかしいわゆる批評家による写真論なのかと思いきや、病弱だった作者を、女手ひとつで育ててきた亡き母へのレクイエムと、一見相容れないテーマの不思議な絡まりに、マキシマムとミニマムが複雑に、そして調和することで写真というものを問う名著である。

 

 私にとって写真というものはあくまで見るもので、撮ることには全く興味が無かったにも関わらず、19歳の頃にひょんなことから広告写真のスタジオにてアシスタントをする羽目になった。それでもおおよそ5年は無駄にもがいて写真家になんてなるもんかと思っていた所(ただし生きる為に何で稼ぐかを悩んでいた頃)、父親のカメラでたまたま撮った写真を友達家族に褒められ、持ち上げられ、写真を仕事にしてみようかな、と勘違いな決意をしてしまった。

 有言実行とばかりに、小学校からの同級生であった親友へその旨を伝えたら、自分はもう使わないから永久貸与と渡された中判カメラと共に、何冊かの写真関連の本も貰った。「明るい部屋」は、その中の一冊である。

 その親友は、小学校の頃から自室の押入れを暗室にして写真を撮り重ね、写真芸術学科のある東京の大学に進んだ本腰の写真家志望だっから、おそらく大学生活の中で、出会った本なのだろう。無学の私に写真というものの概念を、親友は伝えようとしてくれたんだと思う。

 しかし、貰っておいて言うのも何だが、多分、この本を読まなくても、広告写真を仕事にすることは全く出来たと思う。何故なら少なくとも周りの広告業界の先輩方で、「明るい部屋」を読んで思考を巡らせた人とは身近で出会わなかったし、実際自分の師匠だって本の名前はおろか、作者名さえ知ることは無かったから。

 でも、私はこの本との出会いが、その後の自分の中の写真表現にとっては不可欠な構成要素の一冊だったと思うし、親友には、心から感謝している。

 

 おおよそ良いも悪いも感情で動くタチだから、写真を仕事にすると決めてからの行動は早くて、まとめた写真を元に、いろんな仕事を掛け持って稼いで一年足らず。有り金全部「その前に車一台買えるやんけ」と、搬入の為の車を借りた兄に心底呆れられながらも初めて写真展をやった。

 作品のプリント一枚一枚はラボの人が「(技術が要るので)恐らく日本でも5本の指に入るプリント技師が焼きました」と言うほど大きく焼いたので、ギャラリーも面積の大きな所で開催した。そして写真展と言ってもインスタレーションのていだったから、コラボした友達のオリジナル音源がループで流れ、インテリアショップからレンタルしたでかいイタリアのソファなんかも置いて、やり切った感溢れる空間に仕上がった。が、如何せん無名の駆け出しもいい所だったので、そんなに人は来ない。費用対効果なんて、考えも及ばない若い頃である。

 2週間という会期中のある日、ソファに腰掛けて「明るい部屋」を読んでいたら、隣に酒焼けした声の男が座ってきた。「何を読んでる?」と言われて顔を上げたら、私がこれまで苦手で生意気にも邪険に扱ってきた人である。多分、挨拶もそこそこ、本だって背表紙を無言で見せたくらいに愛想悪い態度だったと思うが、その男性はとても喜んだ。

 「ロラン・バルトか。ナホちゃん、ええのん読んでるなあ!」。

 それから、延々とロランバルトについてその男性は語り出した。ああ始まった。。。と思ったが、段々、この人はすごく、面白い人なんじゃ無いかと思い始めていた。自分が身を置く環境で初めて、ロランバルトを雄弁に語り、解釈する人物が、実は身近に居たわけである。

 本人特定されるのもセンシティブなので詳しいことは避けるとして、その男性は元々は(伝説的らしい)某サブカル雑誌の生みの親で、物書き、編集、そこから時代を経て広告業界でディレクターとしても名を成した人だったらしい。が、当時の私の見立てでは、女関係はいまいちよく分からないけど、酒と賭け事とお金にめっぽう弱くて、出会った頃にはブレーンはあるけど相当、身落ちしている印象だった。ただし、やたらに凄みというか、オーラというか、繊細な内面に反してハッタリの効く外見の、品良い厚かましさみたいなものは健在だった。

 スタジオ勤めの絡みで出会って何故だか気に入られてしまい、時々酔っ払っては電話(もちろん実家の固定電話)してきて延々と私にとってはどうでも良い話を講釈されたり、あるいは終わらないはしご酒に延々付き合わされたりして、正直嫌いだった。

 そのころの私にとって垣間見る広告業界は、あえてみんな互いに深い話をしないのか、仲間内に親しげで軽やかで、自慢とお金の匂いだけがする大人達か、あれこれ知ったかぶった話をするが本質的な中身への言及は無くて、高尚そうな顔と持てる知識を武器にして結局はお金の匂いがするか、その二択な人達に囲まれているような感覚があって、どうにも馴染めないで居た。それは言ってしまえば最底辺のアシスタントという立ち位置から、そんな大人達に対して密かに蔑視する事で、自身のアイデンティティをなんとか保っていたんだと思う。が、一方、そんないい大人達が寄ってたかって、どうでもいいと思ってしまえばそれで終わるプロジェクトを、纏め上げて作り出す事やその集中力には、高尚で難解なだけの、分かる人だけ分かればいいと踏ん反り返っているような凄まじい垣根の類いの現代アートには無い、公共への分かりやすさを格好良く追求するという目的の明確さに魅力も感じていたのは抗いようが無かった。

 私にとってその男性は、自分の身を置く八方塞がりの心情に対し、毒と蜜を調合して上の方から垂らしてくれた人なのかもしれない。

 

 それからほんの数年後。

 ある時普段そう行きもしない地元の地下街を一人で歩いていたら、「おう、ナホちゃん」と、聞いたことのある声で呼び止められた。黒いロングコートが近づいてくる。あの人である。

 私は戸惑った。こんなところでまた延々話される事も、どうして地元でも無いのにこの人がこんなところに居るのかも、そして、なんとも言えないあの、ホームレスのような匂いを僅かに放っている事も。

 落ち着かない様子の私を、今まで相手のことなどお構いなしだった筈の人が、初めて察してくれたのか、話もソコソコに「じゃあな」と言って、ポケットから数粒の飴を取り出して私の掌に乗せた。黒づくめの男から、カラフルな飴玉。

 

 それからまた数年後に、その男性が亡くなったのを知った。

 飴を受け取る手をすくめないのが精一杯だったあの時の非情な自分が情けなかった。やっと軌道に乗りそうな自分の人生に対して、引っ張られそうなのが恐かったのも解りかけていた。どうしてあの時、せめて「お茶でもしませんか」と言えなかったのか。カレーの一杯でも、奢ろうとしなかったのか。どうして彼は飴を、私にくれたのか。

 今はもう、その理由だけはよくわかっているつもりだ。


ブックカバーその5

「悪童日記」三部作

アゴタ・クリストフ/著

堀茂樹/訳

 ハンガリーはオーストリアの国境近くの村で生まれ育ち、1956年のハンガリー動乱の折、西側に亡命し、母国語ではなくフランス語にて書かれた著者のデビュー作。

 舞台は第二次世界大戦末期から戦後数年間、ハンガリーのとある田舎町での物語。戦争から守るべく、自身の母親の元に、双子の男の子を預ける娘。その究極の選択から始まる物語は、双子の男の子による秘密の日記の体裁で進んでいく。

 村の人からは「魔女」と囁かれている老女を、双子は「おばあちゃん」と呼ぶ。その老女は双子の男の子たちを「牝犬の子」と呼ぶ。物語冒頭から出喰わすそれぞれの呼称から、彼らの新たな環境が如何なるものなのかが想像がつくが、これは単なるスタートで表面的な情報に過ぎない。

 文盲の老女には決して読めない筈にも関わらず、秘密の日記には彼らなりにルールを設け、曰くそこには実際にあった出来事だけを書き記す事と、思ったことや感じたことは決して書き残さない、としている。であるから、彼らがその日々の中で見たもの、聞いたもの、やった事が子供らしい、たどたどしい、純粋であるが故の冷淡さや残酷さで文章が紡がれてゆく。

 本のあとがきには、著者自身、慣れないフランス語でこの小説を書き上げた事で、結果、それが生々しく子供の声となって文体表現が成されているのだそうだ。勿論、私は日本語訳で読んでいるので確認のしようが無いが、堀茂樹による翻訳はそのあたりのディティール表現をおそらく完璧に、こなされているんだろうと読んでいてひしひしと感じる。

 シリーズは3部構成になっており、私個人の知る限りでは、国家や世間や家庭の中で、虐待を受けた子供達の心理状況を、ドキュメンタリーではなく物語としてここまで悲しく、また力強く成立させている本とは、後にも先にも出会ったことがない。

 

 この本を紹介してくれたのは、当時広告写真スタジオで働くかたわら、土日は営業写真館でもアルバイトしていた頃の、バイト仲間であるお母さんからだった。帰り道をいつも車で乗せてくれて、その道すがらであれこれ会話した際、その人が以前は図書館の司書をされていたのを知った。

 ふと、子供の頃に読んだ、気になって今も忘れられない児童書の話をした。「おかしな金曜日」と言う、ネグレクトで親がある日消えたことから始まる兄弟の奮闘物語で、友達らに支えられながら、最後は児童相談所(そして養護施設)に行くと言う児童書らしからぬ内容とオチの物語。「あんな夢も希望も無い子供向けの本って、そう無いから忘れられなくて。児童相談所っていうものがあるのも、あの本で初めて知りました」。

 ほんの今なら、ネットでなんでも調べられて、著者は誰だったのか、どこの出版社のものだったか、まだ絶版では無いかなどもすぐに分かるが、その頃はネット環境も無くて素人には見当もつかなかった。そこで尋ねてみるとお母さんは、図書館で調べられるよと言って、すぐに調べてくれた。

 

 「何でも人間は苦労をした方がいい、買ってでもいい、なんて言う人もあるけど、私は子供たちには出来る限り、悲しい目になんてあわせたく無い。苦労なんて、経験しなくても人は成長出来ると思う。ただし想像力は養って欲しいから、本をできるだけたくさん読んで欲しい。人の痛みの分かる優しい人には、なって欲しい」。

 これがお母さんの信条だった。世の多くの母親の、祈りと願いはそういうものなんだと知った。

 そして「悪童日記」の存在を私に教えてくれた。

 

 今、私の中で心配でならないのは、世の中がこうした状況になって、ほとんどのニュースが流行りものの動向を伝えるものばかりになってしまっている中、埋もれてしまっている事細かな問題は、一体どうなっているだろう、という事だ。

 子供にまつわる話で言えば、遡ること戦争中から末期、その後の混乱期にはこの日本でも、路上や駅で暮らす戦争孤児(戦災孤児あるいは駅の子)と呼ばれた、親も、住む場所も失った子供達が、全国で約12万人も居たそうだ。しかもこの数はあくまで両親を失った子供の数だけで、どこかに身寄りのある子供は数に加えられなかったそうなので、実際には更に多かったとも言われている。その数と主な分布は東京や広島、兵庫に次いで4番目に多かったのが地元京都。あの京都駅に溢れんばかりの孤児が居たなんて、想像出来るだろうか。

 当時を語る僅かな資料を探すとおおよそ、その後子供達は施設に引き取られたそうだが、彼ら一人一人の心に想いを寄せるには、あまりにも遠く、そして数が多い。なにより、彼らがその後、どのような人生を辿ったのかもほぼ分からない。映画「ほたるの墓」も、漫画「はだしのゲン」も、当時日本中が痛みと混乱にまみれる間、登場した少年少女、だけじゃ無い、同じような日々を過ごした無数の子供たちが、実際に居た訳である。

 

 昨今(と言ってもコロナ以前)、児童虐待というものに対して、事件化されたものがニュースに取り上げられることが多くなった。そして一方ではそのケア体制についても、施策の様子も世間に可視化されつつあった。新聞やテレビを見つめる多くの人は、児童虐待というものを現代社会の抱える新たな問題として捉える向きもあったろうと思うが、私はそれは、問題としては昔からあって、ただ世の中がある程度平穏で他者への視線の余力みたいなものが、生じてきたが故の多そうに見えた数、だけだったんじゃないかと考えている。それはある意味では、社会がようやくこのような問題に対して目を向けるようになった良い傾向でも、あるとも言えた。が、しかし例えば今回のように大きな災いが起こってしまい、それで世界中が大混乱になってしまうと、あの、戦中戦後の頃ように、我が身、我が子、我が家庭、我が国のおおよそ全体を守るので誰もが精一杯で、そこから溢れてしまった悲しい子供達に目を向けられる事が、再び無くなってしまうんじゃないかと、とても危惧している。

 

 今、学校が閉鎖され、子供達が登校出来ない状況が全国的に続いている。

 そこで登場したのは学習を進めるためのオンライン授業に、ICT化が遅れてるだとかなんとか、おおよそ全体の学校運営とその未来像に関する声は大きく響いている。

 が、ふと、思う。普段から、実は学校には行きたくない子も居る一方で、学校という逃げ場があるからこそ、なんとか生き続けていられる子供も実際には居るだろうと言うことも。

 こんな世の中になって、大人ですら近視眼でストレスもいっぱいに抱える中。それ以前から虐待傾向にあった、我が子をストレスのはけ口にする悲しい親が、家で四六時中、子供と一緒に居るだろう現状を思う。

 少なからず、かつての経験者から言わせてもらうと、想像するだけで、私はゾッとして息が苦しくてたまらなくなる。


ブックカバーその6

「幸田文・全集」

幸田文/著

 明治の文豪・幸田露伴の娘、小説家、随筆家の幸田文による全集。

 岩波書店から1994年から97年にかけて発行されたもので、全23巻ある。確か、発行当時は全巻でなく1巻ごと予約で注文してその都度、近所の書店に取りに行く感じだった。父親の蔵書の一つだが、親子で毎回楽しみにして読んでいた。

 

 幸田露伴による事細かな家事指南と言うか、厳しい躾を守って実践していく娘さんによる、幸田家の日々の暮らしが描かれていて、今でこそ和の暮らしとか、丁寧な暮らしとか、スローライフとか言って持ち上げられて格上げされた印象だが、全集の形で発行された当時はバブルは崩壊したとは言え、日本ならではの暮らしや生き方なんて、絶滅の危機に瀕しているにも関わらず、注視すらされないような時期だったので、ある意味、時代の転換期における原点回帰のオリジナル的書物だったんじゃないかとすら思う。

 文体はスルスルと、優しく面白みをもってさっぱりと畳み掛けるという感じで、昨今時折見かける、読んでいても嘘っぽさとか嫌味感とか、憧れを煽るような白々しさが一切無い。もはや現代社会のど真ん中では立ち返りようの無いアナログの極みかもしれないが、日常の中で大切にしたいものがそこかしこに散りばめられている。

 

 私の産みの母親は京都の田舎の元大地主の家のお嬢ちゃんで、育ての母親は終戦間なしの壮絶な家庭環境で育った悲しい人だった。真逆の素地に育った人達だが共に料理を始め、家事全般の基礎がほぼ無かった。加えて、なんでも器用で料理も上手だったが田舎の貧乏百姓の出である父親はおおよそ全ての家事は我流だった。よって身についたかどうかは別として(そもそもお育ちというものは本で学んで付け焼き刃的に身につく訳でない)、私はこの本で家庭生活や家事の色々について、初めて知ったことも多い。

 

 ある日のお正月。「もう菜穂子には料理に関してはだいたい身につけられた」と、父が息子である私の兄に自慢しながら、共作したおせち料理をツマミに3人で酒を呑んでたら、「結婚も出来ひんのにそんな腕あげて何の役に立つねん」と兄が嫌味を言った。「アホやなお兄ちゃん。普通の家庭料理がそのうち世間で絶滅しそうになったら、飯屋やるんやんか」と私はすかさず返した。

 ようやく訪れた平和な関係に戸惑いつつも、みんなで笑って、照れ隠しにしこたま呑んだ。

 そんな日もあった。

 

(うちの家でままある事だが、残念なことに全集の第1巻目が手元に無い。だいたい良いなと思った本は、音楽アルバムもそうだが人に貸してしまって、今や誰に貸したかもわからなくなっているものがいくつもある。が、それもまたよし。)


ブックカバーその7

「アリガトウ」

文・芝田清邦

画と装幀・駒形克己

 農工一体を理念に掲げた菓子メーカー、滋賀県の叶匠壽庵の元会長による、自然の恵みや営みを支える、見落としそうな小さな命、ひとつひとつに感謝するごく短い言葉を軸に、デザイナーで絵本作家による、コンセプチャルかつシンプルな装丁が美しい。

 この作品が生まれた翌年の2015年。芝田会長は急逝され、お別れ会にて参列者に配られた。享年68歳。

 本棚の一番見えるところに、お世話になった人、コト、モノに対して、ありがとうの言葉を忘れないよう、いつも置いている。

 

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 シリーズ最後なので。長い締め。

 

 世の経営者やコンサル業の人、宗教家、政治家、カウンセラー、あるいはセミナー主催者などが書いている、いわゆる啓発本の類いはまず、私は買ったことが無い。

 そして多くの日本人と同様、私も宗教観が相当曖昧である。

 が、そんな中でも歩いてると出会うお寺の掲げてる伝道掲示板とか、新聞にある啓発本の広告欄とかのキャッチコピーにはつい目をやってしまう。

 随分前に見た啓発本の宣伝文句に「とことんやって、何もかも諦め尽くすまで生きろ」みたいなのと、「生きる中ではどうしても後悔は生じるが、出来るだけ後悔の数を減らせ」みたいなのがあった。そうか、と。

 あとは何をか言わんやで、勿論買わずに勝手に自分の中で拡大解釈して腑に落ちた。

 

 自分ではどうにも出来ないし変えようの無い親の庇護下の元で精神的瀕死状態だった子供時代には、家庭以外の周りの友達やその親、先生らには全くお返しのしようのない程、それが溢れすぎてどう返せばと混乱する程お世話になった。もうこれ以上は、という思いで、10代後半以降掲げた人生設計には「せめて人様にご迷惑をかけない」と言う相当低い(で、ありながら頑なな)ハードルを設けるしか無かった。どんなに困っても、他人は勿論、親族や友達、知人からお金は一切借りない貰わない、とか、人の時間を自分個人のためだけに奪わない、とか、出来るだけ人を頼らない、頼ったとしてすぐ返せるくらいとか、その程度の事である。それでも、原資やバックボーンが初動で無いどころかむしろマイナススタートだったのと、動く前から既に蓄積された未解決な問題にて、現実は自分の小さい器にはとてもシビアだった。ので、息してるだけでも多くの人に迷惑を掛けたし、結局はまたたくさんの人を、心配させたり振り回したり、傷つけたり失望させたと思う。

 でも出来る限り、人に迷惑だけはかけない、人に甘えないと言う思いだけでこれまで生きてきたつもり。

 片意地はってたし、驕りや思い違いも含め。

 

 たった今、世間が流行りものにてこうなって、横文字「ステイホーム」のもと、用事以外は外に出るな家に居よう、自分はもちろんだが人にも病気を移さないようにしよう、迷惑をかけるな感染を防ごう、その行動が、ひいては医療従事者を守ることになると言う世界的キャンペーンがはられている。そのため国の中央、行政もそうだが民間でも、あれこれ家ごもりのための工夫発信が施されている。例えばこのブックカバーチャレンジなど、一連のSNSチェーンメールも、ある意味ではそうだろう。

 今や溢れんばかりに、みんな家に居ても、何かしら目先が変わるように、簡易的に(本来なら3次元で体感するはずのものを)2次元でもなんとか楽しみがわかちあえるようなエアエンタメが席巻してる。

 が。何を見ても。

 なぜだか苦しい。そして虚しい。

 それは自分の自由が奪われているからなんだろうか。

 どうしたって退屈から逃れられないからなんだろうか。

 先行きの見通せない、不安がそうさせるんだろうか。

 同調し、様子見し、世間と足並みを揃えなきゃならない、むず痒さが由来だろうか。

 

 もう亡くなってしまったが私の叔父の一人で、結婚して子供も生まれてさあこれからと言う時に、農作業中に段々畑から落ちてしまい、首から下は全く動かなくなって数十年、寝たきりになられた方が居た。残念ながら、私はほぼお会いすることが無かったが、誰に対してもとても優しく穏やかで笑みを絶やさない、まるで仏のような人だったと言う。

 ある日父が見舞った時に、叔父は「ニイちゃん、わし、自分で首くくる事も出来んしなあ」と、悲しく笑ったそうだ。これが最初で最後に叔父の口から聞いた、たった一回きりの泣き言だったという。

 来る日も来る日も24時間365日。全部見えてて、何をも考えていて、でも全く動けないなんて、それでも狂わず人に優しくなんて、あいつのように、俺なんかに果たして出来るだろうかと、父はポツンと言って泣いた。

 

 人に迷惑のかからないよう、行動を持重する。

 これも、最初は良いし暫くは良い。

 ただ、まさか自分はあの叔父のように壮絶な人生を生きた訳では無いし、達観などとはあまりにも程遠い、で、あるがゆえに少なからず、10代の頃に掲げた指針から、人に迷惑をかけない事で満足し、それで良しとは全く思えない後ろめたさみたいなものを常に抱えていた。課題をクリアすべく必死ながら、自分の毎日を振り返って背中にはいつも、何にも誰にも役に立ててないと言う情けなさがつきまとった。こういう思いは、じわじわと心を蝕むのである。何故なら、自分が息をしているだけで、それでもたくさんの人あってこそ過ごせる日常だから。それに対して何にも出来無い、お返しのカケラさえ出来ないのはとても辛い。

 自分は動かなくて良いむしろ動くな。その一方で動かなくてはならない人が居る。それも非常に過酷に。その差があまりにも大きい。

 それを考えると、パソコンのyoutube music無料枠で気分を上げるべく聴く音楽の合間に、ちょいちょい挟んでくる、いろんなタレントが(なになにだから)「ステイホーム♪」と謳われる度に心が急降下する。結局、いっとき足りともエンジョイホームを堪能出来ないか、堪能しようと現実を忘れるまで必死でエンジョイを努力するか、やっぱり誰かの存在に思いを馳せるか。その24時間ループなんだと。

 

 ともあれ、自分がむやみに外に出てはいけない理由はもう理解した。その上で、家篭りする、それすら誰かのサポートが無いと成立しないんだと痛感した。自身の存在の無価値感という自虐と向き合うだけの日々の中、普段、見知らぬ人すら巻き込み、直接的な関わりは無くとも現代における人間というものの生活には、生きるために必要不可欠な他者の存在が常にあることを知る。医療従事者の方々は勿論、生活必需品にまつわる小売業が機能するようそれに関わる全ての人、配送業の人、ライフラインを支える企業ならびに組織におられる人、それから、指揮系統に混乱のある中を最前線で対応される(が、感謝されづらい)公職に就く人。。。対価あってもそれに見合わない存在に対し、しかしながらこうなると仕事さえままならずにそれを支払える能力すら危ぶまれてゆく。

 だから、自分がステイホームと言ってる間も、せめてどこかの貴族みたいにお茶したり読書したりワンちゃんと戯れたりする動画を音楽コラボでアップするような、立場上努力はされてようとも結果無神経なリーダーにはなりたく無いし、このような状況で危険な中を、大切な家族とエンジョイどころかステイすら出来ず外で働かざるを得ない多くの方らにとっては、下手をすれば我々もやってることは同じじゃないかと言う風にも、せめて気持ちだけでも視野は保っていたい。

 そして今、この半径数メートルの範囲で、心狂わせないよう自分を保つ以外に出来ることは何か、自分に問いかけてみたい。

 

 「ありがとう」と言う言葉には、時には対で「ごめんなさい」が忍ばされているのをいよいよ知った。正解も出口もまるで見出せないけれど、これだけははっきり言える。

 でも、いつかはまた素直に別々で、言うべき状況でちゃんと伝えられるよう、出来る事なら心からの「ありがとう」の数を溢れんばかりに、そして「ごめんなさい」では済まされない程の、社会、ひいてはこの地球に対して致命的なミスを犯さないように、今後、我々に未来があるのなら、せめてそうやって生きていきたい。

 よもや自分の不安な感情を、他者にぶつけたり、不満を撒き散らして周囲へ蔓延させないように。

 相手がごめんなさいやありがとうを言わないから、こっちも言うもんか、なんて喧嘩腰にならないように。

 

 本にまつわる大切な人たちとの、出会いとこれまでの思い出を振り返って。

 全ての命には、その存在だけで意味があると教えてくれたあなたへ。

 ありがとう。ごめんなさい。ありがとう。


谷口菜穂子写真事務所
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