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「日本のお盆は終戦記念でもある。」 〜遠い海の向こうの親族に想いを馳せて

 

(この時期恒例の長文です。)

 

 アメリカはカリフォルニア州にある、日系人強制収容所「マンザナー」にまつわる、当時2歳だった日系人の女の子のお話を軸に綴られた記事に目が留まった。

 私の父方の大叔母は戦前、日本どころか故郷の鹿児島の、それも小さな集落しか行動範囲も無かった結婚したての20歳の頃、開拓移民として西海岸に同郷のご主人に連れられて海を渡り、戦中は先に亡くなったご主人も居ない中を、5人のまだ小さな子供たちとともに強制収容所に入れられたと言うお話は、これまで何度かSNSで書いてきたからご存知の方もおられると思う。

 そんな、海を渡った大変多くの日本人が敵国民として収容された場所。戦後間もなくマンザナー収容所跡は売却解体されたが、後年この問題が取り沙汰されるに伴い、同地区は国立公園局によって史跡として保存され、現在は跡地に慰霊塔が建てられ、バラックとトイレ、監視塔が復元されている。加えて、当時を語る資料館もあるそうだ。

 

 補足として、この歴史的事実に対し、アメリカという国が行った謝罪と賠償の事例をいくつか述べようと思う。

 1942年のルーズベルト大統領令によって、当時約120,000人の日系人を法的決議も無いまま強制収容した過ちについて、76年にフォード大統領が公式に過ちを認める発言を行った。78年には日系団体による謝罪と賠償を求める運動が起こり、80年にカーター大統領が実態を調査し、当時の政府を批判。これらの経緯を受けて、88年にはレーガン大統領が「連邦議会は国を代表して謝罪する」「人種的な偏見、戦時中のヒステリー状態、政治的リーダーシップの失敗が動機」と認め、強制収容された日系人へ一人当たり2万ドル及び総額12億五千万ドルの教育基金を設立したと言う(今年に入っても、トランプ政権下による移民政策への抗議も込めて、カリフォルニア州が公式謝罪)。92年にはブッシュ大統領が公式謝罪及び賠償金の追加割り当て。99年に賠償金の最後の支払い完了。また、強制収容から75年を記念し、ワシントンのスミソニアン国立アメリカ歴史博物館では、当時の写真(アンセル・アダムスやドロシア・ラングなどの著名写真家による)や資料を展示する1年間のロングラン特別展が開催されたそうだ。

 

 88年の謝罪と賠償時期と言えばちょうど、私が高校生の頃に大叔母家族を訪ねた頃の話だが、その経緯も含め、大叔母は収容所での暮らしやその日々に感じた事も決して、どんなに話を振ってみても、批判も泣き言も、あるいは水に流したと言う事も、「強制収容所に居たことがある」と言う短いセンテンス以外に私に語ることは無かった。アメリカ国内にあった10箇所(記述先によっては11箇所とも)の収容所でも何処で過ごした、ですら話してくれる事はなかった。その後の未来と、家族の幸福な話だけを大叔母は語った。それはとてもとても、大叔母は日本人なんだと思う(その後、94年に大叔母はアメリカの地で亡くなった)。

 はっきり分かっている事は、大叔母にとっては祖国は日本であったが、彼女の子供や孫たちには今や、アメリカが故郷である、と言う事だ。

 

 先に述べた政府による謝罪と賠償の経緯については、その時代時代と政権の方向性、組織力の風向きによるものも多いだろうから、実際には、本当に戦争によって奪われ、失い、傷ついた多くの方々への感情がせめて少しでも償われる事によって癒されたのかは果たして私には分からない。しかし私は今回目にしたリンク先にあった文言の一節に心が留まった。

 およそ60年の時を経て、かつて収容されていたマンザナーを訪れた日系人女性に対し、現地を訪れていたアメリカ人の方々が彼女に向かって、「国の行為を謝罪し、中には抱きしめる人もいた」と回想された箇所だ。思わずハッとさせられた。

 戦争は、あまりにも多くを奪う。先の戦争では、誰も彼もが傷つき、あるいは罪を背負っている。そして国家がとんでもない方針をもって、将来に渡っても償いきれない蛮行を行った。それも、何処の国だけが、と限定しようが無い。

そんな中で、恐らくは直接、先の戦争と直接関わりの無い世代の方々が、かつて傷をおった方に向けて個人間で謝罪し抱擁したと言う。国家の過去の蛮行が行われた現地をわざわざ確かめるべく訪れるような方々だから、そもそもで意識のある人だろうとか、抱擁なんて、国民性だろうとうがって見る事も出来るかもしれない。それでも、私には我が身を振り返るような気持ちが湧いた。

 

 かの有名な、時に右側の論客には不評とされる、広島の原爆死没者慰霊碑の碑文

 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」。。。

 良きも悪くもとても日本人らしい。一体主語がない。誰に謝っているのか曖昧。何故原爆を落とされた側がこの場所で過ちは繰り返さないと言うのだ、と言う主張がある。確かに。戦争というものに対してくさびを打つには、このくらいのふんわりとした普遍的な言葉で留めるには相当かもしれないけれど。

 しかし、私たち、特に平和教育の名の下で度々連れられた広島にて、この慰霊碑に向かって手を合わせ、こんな悲惨な戦争は繰り返してはならない、と誓いはすれど、私たちの最も近い先祖の世代に行われた戦争において、また日本人として、私たちも傷つきました、皆さんも傷つきました、みんなでもう2度と、こんなことが無いようにしましょうね、で、それは果たして終わっては無いか?と。あるいは、国の代表がその時々で微妙な謝罪らしからぬ(それなりに尽くした、とも一方では言い切られる向きもある)謝罪や補償の事例を目にして、なんだかなあとは思ったり、しても。

 ふと想像してみる。

 例えばこのマンザナーのような、あるいはアウシュビッツのような、日本人がかつて他国民に対し、国家として誤った証である戦争期の遺構を調査して明確に認め、慰霊し、謝罪するような場所に準ずる所を日本国内において、私は不勉強かもしれないがあるかないかを思い浮かべる事は残念ながら出来ないが、仮にあるとして、いや、例えば同じ日本人である、島全体が人柱の如くにされた沖縄でもいい、その現地に向かい、そこで出会ったかつての被害者に対し、駆け寄って、詫びて、抱擁するなんて果たして自分に出来るだろうか。あるいはこれまで、そういう気持ちを直接向けた事があるだろうか。痛ましかったですね、以外に。と。

 被害者側への感情移入までは多少なり勉強の上で出来たとしても、加害者側としてその立場に立って、加害者としてなすべき事について考えたり、自ら心を入れた事は無かったのではないか。と。

 

 そんな風に、もしも自分の身を一歩、相手に向かって近づけてみたら、そしたら本当に、相手の気持ちが分かるきっかけになるかもしれない。収容所生活を強いられた人の心にも、亡くなった人の永遠に失われた時間にも。。。戦争によって傷つけられたあまりに多くの人々に対し、わずかでも寄り添えたかもしれない。

 果たしてそれは美談に終わらず、良い想像として喜ばれる事は決して無いかもしれない。

 拒絶されたるかもしれないし、閉ざされたままかもしれないし、罵声を浴びるかも、あんたに謝られたって意味が無いとも言われるかもしれない。

 それでも。誰かが(あるいは国家が)いずれやるだろう、いやもう既に充分やっただろう、だって昔の事だし自分たちがしでかした事じゃ無いし、じゃあなく、まずは自分から、身の寄せ方とたった一言から相手方から返されたリアクションから、かつて傷つけられた人の心が、どれだけに深く痛めつけられているのか、どれだけ未だに癒されていないのかも身に沁みるし、その上でこんな事は2度と繰り返してはならないと、心の底からそう思えるんじゃないかと。

 そして、当事者世代の、加害者でもあり、自らも被害者である世代にはそう容易なことでは無い、ともすればそれを求めるには残酷過ぎるアクションも、次世代の直接当事者では無い自分たちだからこそ、出来ることもあるんじゃないかと。

 

 私は思う。そういう未来への繋ぎ方。

 

今回思うところのきっかけとなった記事リンク↓

https://news.yahoo.co.jp/articles/29a364e63e78a22abff3e83e2961881e0541110c?page=1

収容所の過去と現在を写真資料で伝える記事リンク↓

https://globe.asahi.com/article/13249096

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