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隙間と余白。嵯峨の大覚寺まで。

 

 今回は京都の右側、嵯峨の大覚寺へ。

 

 平安時代初期の嵯峨天皇による離宮が起源とされる正式名称「旧嵯峨御所大本山大覚寺」。

 神社建築やその周辺の自然により近い環境、及び皇室建築や天皇陵にとても惹かれるらしいおツレと、どちらかと言えば寺院建築や人の手による日本庭園が好きな私の、一緒に訪れる場合にどちらもが満たされるお寺。。。とは言え。お恥ずかしながら、今回初めて訪れた。

 これはまったく京都あるあるで、主に市内左側を生息域としている京都市民は市内右側の土地勘に非常に疎く、小学校などの遠足も行って嵐山の猿山くらい。その後はバブル期のタレントショップラッシュだった嵐山にデートに行ったか、女友達と甘味巡りでサラッと行ったくらいで、更にその後の京都観光バブルではあちこち人が多過ぎていわゆる超有名寺院はいよいよ遠ざかっていた。恐らく、市内右側を生息域としている人たちも、逆に左側名所に関しては似たようだろう。

 思えば、よく知らないものから遠ざかり、人が群れている所から遠ざかるのは、何もコロナが始まる前からやっていた事と言うと自虐が過ぎるかな。

 時は過ぎて今。訪れる人もまばらの境内に、まずそう人と会う事も無い広大な池の周りの散策道。とても静かだ。

 

 (ややこしいけど)コロナ直前までは人がいつ何時も多過ぎるのが共通認識だった京都。それ以前は「底冷えの寒い京都。盆地で蒸し暑い京都」が共通認識だった。よって昔は桜や紅葉の見頃を過ぎると、記憶の限りそんなに人も多くは無かった。特に夏場など祇園祭がせいぜい。送り火も地元民中心で先祖を見送った。枯れ葉も無くなる冬の無彩色にいよいよ目にも寒々しい京都は、除夜の鐘の真に似合う街だった。

 コロナ渦になって緊急事態宣言も数発と過ぎる中、観光に軸足を思い切り置いてしまっていたほんの前の過去と、更に遠い過去それぞれの残像が京都の街を交差する。経済面では客観的な反省も分析も何もでただ右往左往。一方表面上の空気感は、遠い過去の、狭い土地ながらも時間はそんなせせこましくは無かった、昔の京都のゆるくてぬるい感じとシンクロする。京都でも更に観光エリアとされる所を歩いていて思うに、多分あの頃と比べて何かひとつ足りない要素は、修学旅行生のフレッシュな制服姿と白いシューズがピカピカ輝く、あの行き交う独特の活気感。重くてどっしりした、ともすれば血の巡りが悪くなりそうな歴史の堆積と閉塞感(と、悪口体質)に、無邪気にはしゃいで軽やかに去っていく彼らが、そんな街の淀みを適度に取り除く循環機能を担っていたのではと、超個人的には思う。

 

 でも、ほんの前の過去に形成された京都は、そうした人の流れだけではどうにもならない商売のあり方がもうどっかりと存在していて、今や地元民と修学旅行生がまず利用する事もない豪奢な箱だけがやたらに積み上がってしまっている。

 そう簡単に動かせない既成事実が吟味されずに造られたものと、長い歴史を通しても残るべきものとして残るもの。そんな対比を毎日目の当たりにしてザワザワとした感覚。
 多分、このままではどうしようも無いから、流行り物が過ぎ去ればすぐさままた、たくさんの人が訪れ、そして受け入れるんだろう。
 そしてそれこそが良さでもある隙間や余白も、無い京都にまた戻ってしまうんだろうか。

 

 

 

 さて。大覚寺にお話を戻そう。

 大覚寺で最も特徴的なのは「村雨の廊下」と呼ばれる折れ曲がる回廊。それぞれの御殿などと連結していて、歩くたびひよひよと鶯張りの板が鳴る。そして、その先の本堂から大きく見渡せるのが周囲1キロにもなる日本最古の人工林泉「大沢池」。最も有名なのは毎年の中秋の名月に池に舟を浮かべて月を賞でる「観月の夕べ」で、大抵の人はテレビなどで一度は見られたこともあるだろう。私もそれで長年行った気になっていたうちの一人である。

 この時期の大沢池では睡蓮が咲き始めていた。更に夏が進むと蓮が池の広くで咲くそうで、市内屈指の蓮の名所でもあると今更知る。

 

 この辺りの事で知って多少なり雄弁に語れる事といえば、こちらのお寺近く、正確には清涼寺のすぐそばにある嵯峨豆腐「森嘉」さんの豆腐は好きで時々買いに来る。中でも夏の期間だけある「からし豆腐」は大好物だ。子供の頃の団地暮らしには、同じ団地に住むおじさんでこちらの豆腐が好き過ぎる人が居て、毎回買ってはプロパーで近所に売って回っていたのは以前、ブログでも触れた事がある。あのおじさんは間違いなく私の成長過程において食育に寄与してくれたうちの一人だ。余談だが京都の豆腐の名所では、岡崎よりも嵯峨、と言うのが父親の好みでもあった。

 また、大覚寺・大沢池の隣にある、周囲1.3キロのため池である「広沢池」(同じく平安時代にはお寺があり、大覚寺と同じく観月の名所だったそうだがお寺は衰退して応仁の乱で廃墟と化したそう)の冬の風物詩、「鯉揚げ」では、これまた子供の頃には父親が生きたままの鯉を買ってきては家でさばいて鯉料理の数々を披露してくれたのも思い出。知らない人には説明しておくと、広沢池は昔から鯉などの養殖が行われていて、毎年の春に稚魚が放たれ、12月になると池の水を抜いて育った魚を水揚げする、と言うのが「鯉揚げ」。海の遠い京都の魚の産地。なかなか合理的と言うか。壮大と言うか。よく出来たシステムと言うか。

 と、まあこれも話を聞いて知ったふりをしているだけで、実際にその時期その場に行ったことは無い。

 ともあれ冬になると、台所の水を張ったシンクに泥抜きの為と称して灰色のよく肥えた鯉が居て、これがまた信じられない位元気が良くて、分厚いまな板で蓋をしててもボンと跳ね上げて脱走しようとするからちょっと恐いのだ。

 その後捌かれて、鯉のあらい、鯉の唐揚げ、鯉の煮付け、鯉のあら汁。。。と、鯉に続く鯉の料理が一気に振舞われて食卓いっぱい。あんまり張り切って料理するから気の毒で言えなかったが、こうなる前の鯉の元気ぶりが印象的で、脂のこっくりした、弾力ある肉質がその様子と合わさって鯉料理は正直、やや苦手だった。それもまた今やかなり懐かしい。

 

 

 遠出する事もそう無くなった日常の中で、地元に居ても知らないこと、知ってるつもりで実際には身を置いてないに等しい所が未だあまりに多いと振り返る。そして多分、散歩で、自転車で、ちょっと車で、と辺りを散策しては心静かに写真に収めて記憶するのも今しか無いなと思う気持ちも正直、腹の中にある。

 そして今こそ何事もよく見ておかないと、また終わった頃には大事なことは何かというのも考えないまま、日々を駆け抜けてしまいそうで恐い。

 

 今年の夏は、ひとまず蓮を観にまた、こちらに来ようと思う。

 


谷口菜穂子写真事務所
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