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大河内山荘。永遠の美を求めた昭和の名優。その自邸と庭園。


 京都は嵯峨野、コロナ前には観光客でごった返してたと言う竹林の小径の先にある「大河内山荘庭園」。皆さんは行かれたことはあるでしょうか?私は初めてでした。日本人観光客的には穴場と言われ、近年は特に欧米人観光客に人気があったそうです。

 嵐山や嵯峨野と言えば、見るべき寺院の宝庫。まだ行ったことの無い場所もたくさんある中で、「昔の俳優さんの元邸宅らしいよ」と言う薄い情報にはつい後回しにしていた場所。多くの方も、私と似た感じだったんじゃ無いでしょうか。

 

 そんな中、元建築会社勤めのおツレのお父さんが京都で(まだ行けてないが)「是非とも一度は訪れたい場所」として挙げているのが「大河内山荘」らしく、その何故を知るにも先回りしてみようじゃないか、いずれ平穏になったらお連れするにもね、と言うわけで行ってみることにした。

 日曜日の、雨の上がった重めの曇り空の中。ハイライトも差さない天候的にも、また季節の花的にも微妙なタイミング。がしかし、竹林の小径もすれ違う人まばら、目的地の庭園に至っては我々以外誰も居ないと言う贅沢な環境が整っていた。

 さて、こちらの主人である「大河内傳次郎」と言う人を今一度おさらいしてみよう。

 福岡県出身の大河内傳次郎(1898ー1962)は戦前の代表的な時代劇スターの一人で、サイレント映画からトーキー映画に渡って活躍、戦後は大物俳優の助演者として現代劇にも数多く出演した俳優である。

 東京・明治屋の仕入部でサラリーマン生活を送っていた大正12年、関東大震災で被災(この時の体験はその後の人生観に大きく影響を与えたようだ)。その後関西で親族の経営する会社で就業するも劇作家を志望。「脚本家になるにも俳優の経験も必要だ」との助言もあり、1926年(大正15年)に京都の等持院にあった日活大将軍撮影所(元は東京・向島にあった日活撮影所が関東大震災で被災して移転されたもの)に入社。同年、俳優デビューと同時に次々と頭角を現し、数々のヒット作に出演。1937年(昭和12年)に東宝へ移籍。時代劇から現代劇と出演するようになり、戦中は戦意高揚映画などにも出演。戦後の1946年(昭和21年)には東宝争議の発生により経営者側にも労働組合側にもつかないとステイトメントを掲げて俳優有志による「十人の旗の会」を結成して東宝を脱退。以降、映画会社を幾つか渡り、主役、脇役、斬られ役を問わず出演を重ね、晩年の5年間だけでも70本を超える映画に登場、1962年7月、胃癌により大河内山荘にて療養の末、64歳で死去した。

 恐らく、大河内傳次郎の名前を聞いて熱狂的な思い出と共に懐かしむのは昭和初期生まれからその前世代だろう。戦後映画で見たかもしれないが、私個人ははっきりと輪郭で描ける俳優さんでは無い。が、今一度眺めてみる若い頃の古い写真では、どちらかと言うと小柄な、普段のスナップによるインテリジェンス溢れる風貌はまるで書生さんのような雰囲気、対して時代劇でも一番有名な役柄だった「丹下左膳」の劇中メイク姿の荒々しく強く大きな姿はまるで別人だ。動きもない写真一つでこれだけ化けられる人なのだから、これは相当にすごい俳優さんだったんだろうと言うのはさすがに分かる。

 特に時代劇出演エピソードで有名な話は、自分の足元さえ見えない程の極度の近眼にして出演時には勿論裸眼で、がしかし立ち回りには(刀引きされた)真剣を用い、よく見えないので強い眼光で相手俳優に肉薄して刀を振るうんだそうだ。真剣を用いたのには意味があって、模造刀では持ち手の心根が変わると言うのがポリシー。が、徹底した役柄へのリアリティを追求した大河内の相手役は常に、着物下にガードを巻いても生傷や打ち身が絶えなかったと言う。

 映画監督の伊藤大輔の言葉が興味深い。

 「バンツマ(阪東妻三郎)は間合一寸で抜く。市川(右太衛門)は舞踏ですから呼吸を合わせれば怪我は無い。嵐(寛寿郎)は正確無比に剣が飛んでくる。これも殺陣の段取りが狂いさえしなければ安心です。それぞれに避けようがある。傳次郎。これはぶっつけ本番で、避けも逃げも出来ません。迫力が出なければ嘘になりましょう」。

 と、ここまでがざっくりとした経歴になるが、このキャリアとぴったり時間を合わせて作り上げられたのがこの地、「大河内山荘」である。

 まずは昭和6年、大河内傳次郎は現在の山荘のある、百人一首の故郷、小倉山の向かいである亀山を庭師と共に自ら山を切り開き、その山頂に「持仏堂」を建て、そこで経典を紐解き朝夕と「南無阿弥陀仏」を唱えて過ごしたそうだ。

 昭和9年、34歳から本格的に、俳優生活と平行して以降30年に渡って山荘造り、造園を自ら設計、作庭に関わり、報酬の大半を注ぎ込んで没頭したとされる。その理由として挙げられるのが「長期保存の難しい(映画)フィルムに対して永く消えることのない美の追求」とあり、約2万m2の広大な敷地に、庭園を始め、中門、大乗閣、先の持仏堂、茶室など(これら建屋は登録有形文化財)を建てた。

 庭師は広瀬利兵衛(作庭家としては一般には無名)、大乗閣は表千家公認の数寄屋師・笛吹嘉一郎が施工。現在は大河内傳次郎のご家族が維持管理を行なっており、また庭園の維持も広瀬利兵衛の子孫が引き継いでいると言う。東の嵐山、遠くは比叡山、西の保津峡を借景にした回遊式借景庭園だ。

 「著名人の元自邸(別荘)」と聞けば、「昔の映画が凄かった(らしい)時代の映画スターが、煌びやかに構築したんだろう宮殿のような、多分そんなものがあるんだろう」と、ありがちな想像を、どこかの誰かを例に出して思い浮かべるかもしれない。がしかしそんな、あまりにもちっぽけな想像などその場で見事に砕け散った。事前情報で垣間見る、この山荘に行った人の多くの写真情報でもまた(勿論私の写真も含め)全く伝えきれてないものがある。

 ある一人の人間がその生業と共に、そして命と共に終えた山荘。映画でも、多分素顔でも、その平な一面だけを見ては理解し得ない、例えば本人を指して、有体な表現の「風流人」だなんて、とても軽々しく言えない、為人を言葉に置き換える事なく感じたり、想像したり出来る場所である。そして勿論ただただ、誰のものでも無い美しさを感じ入れる場所としても。

 初回という訪れた時期が今で良かったと思えるのは、辺りの借景となる山々や庭園が色づく秋の紅葉シーズンで無かった点だ。

 勿論、紅葉が色づく頃はまたさぞ美しいだろう。空が晴れていれば遠く山々を眺めて気持ち良かっただろう。が、何よりこの庭園における最も注目すべき敷石などのバリエーションの豊かさ、意匠の際立ち、点から点のアプローチ、または総合的なプレゼンテーションに対して、色彩その他に目移りする事なくとても注意深く観察する事が出来た。

 見受けられるに枝垂れ桜などが僅かにして花木は少なく、雑木生茂る山道、開けた芝生、そして苔むす小径と、ミニマムに、マキシマムに緑の占める視界が動く庭。その場面ごとに敷石や飛び石の表現が異なり、ある方の解説ではこの山荘庭園について「この古典的な回遊式借景庭園手法は、様々な分野で応用されている『シークエンス』とも重なる。(シークエンスとは)映画では、物語上の繋がりがある一連の断片を意味し、建築では移動につれて変化する景色やデザインを言う」と書かれていたが、庭と庭、それぞれの異なる場面が、大小の細やかに構築された自然石達によって見事なまでに繋ぎ合わされている。

 

 その型破りであるにもかかわらず調和の取れた所こそ最も、大河内傳次郎という人の生き様や人柄が反映してるのでは無いだろうか。私は全くの素人なのでそれぞれの石の価値は全く分からないが、例えばどこかの川に転がっているような石さえ一つ一つ吟味し、小径となるよう大切に敷き詰めた感覚の細やかさを感じる。それは殆ど、異なる色の砂で描いた修行僧による宗教画のように、このような広大な敷地において、集中と修行と慈愛の世界によって構築されたものだったのではないだろうか。

 

 あるいは。全く無名の脚本家による、サイレント映画のような。

 庭園に示された道標通りに歩き進むと、描かれた物語を追体感出来る。その道順は、時に不自由にも不条理にも感じる巷の人流の合理性に則るためのものでは全く無く、ある一つの壮大なドラマ、長い映画を観客側が動きながら体感する、そんな感覚を印象として与える。そして、これらの物語が一通り終わった先に茶屋があり、そこでお抹茶と小さな茶菓子が提供される。ホッと一息つく。そして。道先の最後の最後にそっと、記念館がある。

 この記念館がまた、良い意味で主人の経歴に反してささやかで、全く押し付けがましさなく設置されているのが良い。何せデザインが秀逸なのだ。

 建屋の正面外側から見ると、人間の背丈には中央の空間が明るい建屋にしか見えない。が、入り口から入るとそこは、天井が完全に抜けた回廊型になっていて、降り注ぐ自然光を灯に、元主人の経歴などに触れる事が出来る仕掛けだ。

 で、その場に来てああ、と、道を振り返る心地に至る。

 この建物は勿論、主人の生前にあったわけで無く、ご親族がその後に建てたものだろう。そしてこの庭園全体の、いずれも整った景色を思い返して、なんとまあよくぞここまで、今に至るまで忠実に、大切に、皆さんで守ってこられたんだとじわじわ感動するのだ。

 どんなに、気持ちが通じ合っているのか家族愛よ。

 多分今やお子さん、いや、そのお孫さん世代になるだろう。ここまで大きな敷地を、仮にいくら潤沢な資金があったとしても維持管理することはとても容易では無い筈だ。ましてや、そこに込められた物語を全て解釈していなければこうは決して保てない。

 没後約60年の年月を経ても、恐らくは生前の世界観と同様のままに在るというのはまさに奇跡だと、私は思う。

 

 大河内庭園を訪れて、帰って目を瞑ってもその光景が浮かぶほど私は感動した。映像で知るには今や遠すぎる存在も、ある一人の人間がゼロから作り上げた世界が、彼のご家族によって繋がれ、またこうして我々世代にも何らかを与えてくれる。

 

 今度は色彩高まる晩秋にでも、訪れてみよう。ようやくあらすじをなぞる事は出来た。今度は素敵な物語の核心が、あるいはその折々に変化する場面の転換が見れるかもしれない。そう期待して。


谷口菜穂子写真事務所
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