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米どころ新潟の胆力を知る旅。


 取材撮影で新潟の長岡、山古志村まで。

 早朝からの仕事なので前泊で長岡駅近くに滞在。まずは街を知るべく、周辺を歩くと本当に、いわゆる戦前の街の様子が全く浮かんでこない。何故か。それは世界大戦末期の8月1日夜に襲った長岡空襲で、当時なんと市街地の8割が焦土と化したからだ。(それ以前の明治初期には、戊辰戦争で大きな被害を受けた。)

 「何故なんですか?大きな軍需工場でもあったんですか?」と街の人に尋ねると、「長岡は石油が採れたんでね」と言う説明と共に、「(真珠湾攻撃を指揮した)山本五十六さんの出身地ということで、アメリカが徹底的にやったんじゃないかって話もあります」とおっしゃった。そのお話が本当かどうかは分からないけれど、そう地元の人が今も語る一方、山本家に養子となる前の五十六が生まれた家が復元されて残っていたり、資料館があったり、戦死後に作られた銅像を敗戦後、進駐軍に痛ぶられないよう川に沈めて置いて、引き揚げてそれを型に取って生誕地に再建したり。。。と、皆さんで大事にされている様子がとても印象的だった。

 

 長岡と言えば花火大会が全国的に有名で、日本の三大花火の一つに挙げられる。が、その歴史や趣旨が西日本で暮らす我々には届いているとは言えないかもしれない。不勉強ながら、私はこれまで全く知らなかった。祭りの前身はそれ以前からだが、終戦の翌年より、地元の皆さんによる慰霊と復興のために花火が打ち上げられるようになったのだそうだ。

 

 「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりをつくっていたら きっと戦争なんか起きなかったんだな」。

 

 これは長岡の花火を愛した放浪の画家・山下清の言葉だ。

 そう呟かれた言葉は彼の長岡花火の作品と共に花火師の仕事へ、さらにその空を見上げる人々の心に受け継がれて今がある。
 これらを記録紹介する映像を現地のシアターで一人観覧し、思わず泣いた。

 https://www.youtube.com/watch?v=_wuelVVA_UU

 帰ってからネットで調べると、戦後70年(2015年)の節目には、ハワイのパールハーバーで長岡の花火を打ち上げる一大プロジェクトも行われたそうだ(詳細には、2007年から両市の平和交流が開始され、2011年には両市の姉妹都市締結協定を締結、2012年からは継続的に花火が打ち上げられている)。

 https://www.city.nagaoka.niigata.jp/.../peac.../message.html


街の様子と共に。

 

山本五十六の胸像。

生家であった地は現在公園になっており、この地に胸像が立っている。

五十六の死後作られた銅像は戦後長らく隠匿された後、本体(実物)は今現在、海上自衛隊第1術科学校で保管されているとのこと。

胸像の向かい側に建つ、五十六の生家(復元)。
1884年に旧越後長岡藩士、高野家の六男として生まれ、1915年、長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。

江戸間だから一層一間がより小さく感じたのかもしれないが、お世辞にも大きいとは言えない、よく言えば清貧なお家に思った。復元されたものとは言え、内部は独特の気配のようなものがある(無人にて見学可)。

↑写真引用ーアオーレ長岡シアターより。


 

 翌朝。山古志村へ。

 山古志村は米どころ新潟の中でも、平地に広々とした田んぼの光景が広がる訳ではない。村は険しい山の中にあって、田んぼの姿はその斜面にある棚田である。そして、こうした地の利を生かしたシステムが1000年の歴史を持って形成されてきたところである。
 そのシステムはつまりこうだ。山と豪雪という厳しい自然環境に囲まれる中、その地形を活かして棚田とし、雪解け水を稲作に適した水温まで棚田に張って、そこで貴重な山のタンパク源である食用の鯉を育てる。そんな急斜面に広がる田んぼでの丈夫で重宝な働き手は牛だ。

 やがて、突然変異から色鯉が生まれ、繁殖を重ねて「錦鯉の発祥の地」へ。ひとつ屋根の下で家族同然で暮らす牛は長い冬の間の村の人たちの娯楽として「牛の角突き」へ。

 千年を超える営みの積み重ねを経て、歴史文化が形成された山古志村。がしかし近年その名前が全国の誰しもの知るところとなったのは2004年の新潟県中越地方を震源とする大地震での映像だろう。

 山古志村はその地形が故に甚大な被害が出て一時完全孤立。長い歴史の積み重ねに大切に守られた田んぼも景観も、家も、人、牛、鯉の命もたくさん奪われて、全村避難が解除され、再び村へと戻ることが出来たのは3年と2か月の長く苦しい時間を要した。

 失ったものは果てしなかっただろう、それでも皆さんが一丸となって再興され、こうして田んぼも豊かな稲穂を揺らめかせ、牛も岩のように逞しく元気、鯉も丸々として美しい色柄で水面に花を添えていた。

 

 実は今回で2度目の山古志村への再訪。しかし前回よりも時間の限り、あちこちを巡ってより魅了された。

 

 今、疫病蔓延という、この数十年では恐らく初めてだろう、世界の誰もが同じ時間軸で体感している不安と先行きの不透明な災害の中。
 どんな苦難に飲み込まれそうになっても、厳しい自然を恩恵と捉えて永くこの地で生きてきた知恵を持って、ブレずに耐えて、守って、故郷を大事に思って生きていく山古志村。そして、故郷を非情な戦火で奪われても、不屈の精神で復活を遂げ、恨まず、いがみ合わず、長い年月を経て互いの痛みを分かち合い、多くの人に感動を与えるべく、平和の花火を打ち上げ続ける長岡。

 目先の感情に流されず、うろたえない。互いに思い合い、諦めずに生きる。
 ここには今こそたくさんの、学ぶべき姿があるのではないだろうか。


山古志村備忘録。

 

日本農業遺産第一号(平成29年)の山古志村の棚田。

 

選定理由。
~雪の恵みを生かした稲作と養鯉

・錦鯉の発祥の地であり、育種や品質の高い錦鯉の生産技術が発展した地でもある。現在も世界で行われている錦鯉育種に用いる原種の供給地であり、世界的に見ても独自性の面で確固たる地位を築いていると考えられる。

・中山間地で水を確保するため、湧水や横井戸、雪溶け水の利用や、冬期湛水、渇水時に養鯉用の水を稲作にまわす仕組みなどの、当地の環境に適応した伝統的で独特な技術や知見は、高いレジリエンスを有する。

・1年を通じ谷地に棚田と棚池が入り組んで並ぶランドスケープは特有のものである。

国指定重要無形文化財(昭和53年)「牛の角突き」

 

越後山越の闘牛大会は、5月から11月の間の月2回程度開催される。

かつて山の斜面を切り開いて作られた棚田の農耕には足腰が強く、寒さや粗食にも耐える牛は貴重な働き手であった。豪雪地において長い冬の間は雪に閉ざされ、牛も人も一つ屋根の下で家族同様に過ごす。次第に角突きが人々の娯楽となって根付く。

新潟地震まではそれぞれの家で飼われていたが、各家が被災した後は共同の牛舎で一括管理されるようになったそうだ。

 

錦鯉発祥の地

 

雪解けの冷たい地下水を稲作に用いるため、棚田の一番上の段に池を作り、一旦そこに水を貯めて太陽熱で適温にさせてから稲作に使う。山間部の貴重なタンパク源として、棚田のため池で食用鯉を育てたのが山古志村での養鯉の始まりだ。田植えが終わった水田に稚魚を放し、秋に成長した鯉と米の両方を収穫するのがこの地の伝統的な農業の姿だった。

そんな食用鯉から変異種の鯉(今の紅白の色鯉)が生まれたのが錦鯉の養殖の始まり。大正3年の「東京大正博覧会」に出品されて以降、改良を重ね、山古志を代表する産業に発展。

新潟県中越地震

 

2004年、新潟県中越地方を震源とするマグニチュード6.8の地震が発生。

山古志村では震度6強を観測し、全ての集落が孤立。約2100人の村民のうち死者5名、全壊622棟、地滑り箇所329箇所が発生し、道路は寸断。

地震発生時に牛舎も倒壊し、約半数が死ぬ。残った牛は余震の続く中を山道を移動したりヘリで空輸するなどして数日内に全頭を救出。鯉も水が失われたり流出したり土砂に埋まるなどして約80%の鯉が死ぬ。震災2日後に全村避難。震災から実に3年2ヶ月で全村帰村を果たした。

現在、山古志中央を流れる芋川が堰き止められダム状になったことで集落が水没したことによる家屋二棟が災害の語り部として保存されている。(木篭メモリアルパーク)


谷口菜穂子写真事務所
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