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石川県いいとこ探し。宝達志水町編。

 先週末。思い立って一路、石川県羽咋郡宝達志水町へ。

 

 京都を出て途中、敦賀で高速を下りて朝昼兼用、ラーメン屋「一力」に立ち寄る。

 この辺りは北陸新幹線の高架が着々と出来上がってきている。改めてネットで見るに金沢〜敦賀間は2023年度末開通、24年の春には開業。これで北陸は、単に観光人流だけでなく経済的な面でも関東側との繋がりがますます強くなるだろうと言われている。

 一方、関西との繋がりに関しては、並行するJR在来線に関しては経営分離されるとか、その先の京都、大阪への延伸については随分先の話とも伝え聞き、京都の地下を掘り進むルートへの懸念の声など、ニュースをしっかり追ってない限り地元に居ても結局のところ詳細は今一つ。4月の京都府知事選では争点の一つとなっているが日常の課題とその他のニュースで埋れてしまっている感。ともあれ、今のところは鉄道ではサンダーバード、道路では名神から北陸自動車道があって3時間程度のワープ。が、共に天候の加減で遅延や通行規制があったりもする。

 

 近年、ほんの数年、いや数ヶ月で物事の価値観がひっくり返ったりする中での、半世紀、四半世紀先の大計画話。莫大な予算規模で動く事業展開というもの、過去の我々にとって良かれと思われて、何十年スパンで地道な承認と重なる先行投資に引くに引けない計画になるか、その先に必要でなくなった際は未来を担う人達に強いる負担となるのか、果たしてどうなるだろう。


 と、込み入った話はさておき。
 石川県といえば金沢。その金沢から車で40分ほど北上した所に宝達志水町がある。石川県の真ん中、能登半島の入り口に位置し、有名なのは車で砂浜が走れる「なぎさドライブウェイ」と、その昔、加賀藩を支えた金鉱のあった宝達山に挟まれた細長いエリアだ。

 

↓参照/宝達志水町観光サイト

https://www.hodatsushimizu.jp/kanko/index.html

 

 このエリアを知ったのはおツレの母方の故郷で、初めて訪れた際にすっかり魅了されてしまった。勿論、最初にハマったのはなぎさドライブウェイである。そして並行して走るエリアの背骨、国道249号線両サイドの抜け感と広い空。あちこち残る昔のまんまの気候に則した家々が織りなす風景。

 無い物ねだりと言えばそれまでだが、海が遠すぎる京都の人間にとって、海沿いの街はたまらない。六畳間に居てリモコンでなんでも届くような便利さや古いものから新しいものまで揃ってる環境はありがたい一方、情報処理能力の低下を感じるお年頃にはもう、昨今の部屋に一体何があるのか把握出来なくなってもきていて、時々、固まりがちな心と体のストレッチが必要になる。風通しの良いところに身を置きたくなる。もう自分にはそんなに、なんでも無くてもいいかなあと、思ったりもする。

 どこか異国のリゾートでも無く、縁もゆかりも無い場所でも無い。身の丈に合った、無理のない範囲の場所。

 

 石川と相性が良いように感じるのは、食が合っている所も大きい。日本のあちこち、勿論どこにでも美味しいものはあるけれど、生まれ育った土地の出汁文化からそう遠く無い味の考え方が、毎日の事だと仮定すれば大事に思う。米が美味しい。水が美味しい。そうくると酒が美味い。魚が美味しいのは勿論の事だが、基本の調味料群も素晴らしい。

 ちなみに宝達志水町には、醤油蔵もあるし味噌蔵も酒蔵もある。豆腐屋もあって厚揚げなどとても美味しい。結果、総合して味噌汁が美味しい(これって大事)。農産物も勿論豊富でぶどうをはじめとした美味しい果物栽培も盛ん。そして甘党としては絶対外せない和菓子の甘さのバランス感覚が極めて上品で、町の小さな菓子屋レベルの高い事!と、これだけ揃っていれば、十二分に豊かだ。

 

 今回は前に行けてなかった所を2箇所訪れてみることにした。

 これから機会を設けてちょくちょく訪ねるつもりなので、あんまりガツガツ攻めないで、お楽しみはとっておこうとも思っている。

 宝達志水町のいいとこ探し。以下に。

 


喜多家住宅

 加賀藩の村支配を代行する村役人組織の頂点に立つ役職を「十村役(とむらやく)」と言い、他藩でいう所の大庄屋に相当し、藩の中で10の頂点のうちの一つだった「喜多家」。欠落百姓の防止や新田開発の促進、夫役徴発を主な職務とし、藩直轄の農村の徴税代官を兼務した。喜多家初代は1638年から、1814年には2305石もの大地主だったそうだ。

 7000坪を越す広大な敷地に表門、主屋、道具蔵に味噌蔵は重要文化財に指定されており、ご案内下さった現当主曰く「建物なんかが文化財になるのはよくある話ですが、敷地も全てというのは珍しいんです」と、その訳も丁寧に説明して下さった。

 敷地を囲う生垣は確かに大きな敷地であることは窺えるが通りに面した入り口の門は一見簡素な造りである。そこから鬱蒼とした樹林に囲まれつつ歩き進めると、通常なら位の高い屋敷はお城が例のように高い位置に建てられそうなものが、なだらかに元の地面より掘り下げられていて、その先に立派な茅葺の表門、前庭のその先に重厚な主屋が建っている。つまり表からその全貌が窺い知ることは出来ない立地と造りになっていて、それはひとえに「豪奢な造りにして幕府に目がつけられないように」徹底して配慮された藩の思想が敷地の全てに体現され、それが丸ごと今も残されているという事だそうだ。故に、藩主の寝泊りする部屋の天井も例えば格式の高いとされる格天井となっていなかったり、欄間にあえて女家紋が彫られていたり、など、至る所の意匠も建物内部の細々も大変興味深い。

 

 おツレは説明を聞きつつ加賀藩を「中庸の精神」と説く。

 「それって前田家の家訓かなんかなん?」「いや、僕の勝手解釈(笑)」だそうだが。

 上に過剰にへつらわず、さりとて目の敵にされるようにも振る舞わず、どちらかに偏りも肩入れすることもなく、時にしれっと避けて通る。ただしがっつり保守大国。自給自足で体力を蓄え、結果自分の国の人々の安寧を守るというのも、それは生きる道のひとつ賢いやり方なのかなあなんて、時節柄しみじみ思った。

 

 また、花の頃、新緑高まる時期にでも再訪したい。


やわらぎの郷

 大阪のオムライス発祥の店「北極星」創業者・北橋茂男氏はここ宝達志水町の出身。

 戦前より大阪でレストラン展開など手広く経営するなどし、地元に多くの貢献をする中、「やわらぎの郷」を設立して聖徳太子殿を建立。広大な敷地には桜の木々がたくさん植えられ、桜の名所となっている。その聖徳太子殿の天井画として、日本画家・田中一村に周辺の薬草を描くよう依頼したものが見られるとあって、訪れてみた。

 昭和30年春の約40日間現地に滞在して周辺の野山を歩いて薬草のスケッチをした一村。これらの天井画はつまり、宝達志水町の野山が描かれているという訳だ。そしてこの制作の報酬が奄美大島への移住の足掛かりとなり、「日本のゴーギャン」とも称される、あの一連の亜熱帯の花鳥画シリーズに繋がってゆくのが興味深い。
 死後高く評価されることになった孤高の画家・田中一村と北橋氏が生前、どのような縁で繋がり、これらの作品と成されたんだろう。数年前の回顧展では多くの動員数を誇った田中一村の作品群も、ここでは静かに誰にも会わずにみることが出来る。

 多分、桜の咲く頃にもひっそりと。


集落散策

 最後に今回、突然の旅程であったにも関わらず、移住コーディネイターさんには丁寧に周辺案内を頂いて心より感謝を。
 現在、宝達志水町では移住者の受け入れが盛んにて、空き家バンクに始まり、手厚いサポート体勢や補助政策が充実している。

 普段、敷地面積30坪もあったら十分な家、その倍もあったら豪邸気味、通常は隣家同士がくっついてるかくっつきそうである我々からしたら、いずれも伸び伸びした住環境にて、雪国仕様の立派な梁の家々には感嘆の声の連続だ。

 

 お昼に立ち寄ったのは移住開業された保護猫活動もされてるカフェ。移住ならではのお話よりも思わずネコ談義で盛り上がって、肝心のお話はまた今度でも。

 しかし猫らもここで暮らせばさぞかし幸せだろう。我が家の留守番猫らはどうしてるかな。。。

 

 つづく。



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