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印象を残す。堂本印象の世界へ。


大岩神社にある堂本印象の鳥居

 

 コロナ禍真っ最中の頃、これは見方を変えれば観光客の途切れた絶好のチャンスとばかり、静けさを取り戻した京都のお寺というお寺を巡った。その中で、ちょっと魔界的なもの好きなおツレのリクエストで、常は日本ではもはや無いほど外国語に溢れた伏見稲荷のある稲荷山のすぐお隣、大岩山にある大岩神社に行ってみたいというので訪れてみた。

 まず、ちょっと怖め京都スポット好きには大概知られてもいるこの神社には、昭和37年に日本画家の堂本印象が作って寄進したという大変エキセントリックな佇まいで異彩を放つ鳥居がある事で有名だ。なんでも、子供の頃に体の弱かった堂本印象を思って母親が大岩神社の熱心な信者であったとされ、病気の平癒したお礼に寄贈したという話である。

 個々人のブログでこの神社を訪ねた人の書きようでは廃神社などと言われるほど、相当廃れた雰囲気が山道を覆っていて、異国情緒を醸して大賑わいの伏見稲荷とは全く異なる異国的かつ、物好き以外は寄り付かない忘れられた遺跡の様な鳥居も相まって、ここはまるで魔界への入り口の様だ。この鳥居に辿り着くまでの竹藪の道、そして最初の鳥居を越えてからの山道と、昼間と言えど一人で訪ねるには相当心細い。

 

 ちなみに、この神社のある大岩街道と言えば、小野小町に求愛する深草将軍の「百夜通い」の伝説的舞台であり、また、明智光秀が近江坂本城に敗走する途中に武具を沈めたとされる沼があったり、家康が上洛の際には乗馬の飼草を賄ったことから通称「御草山」と言われたり、大津街道の一部として江戸から京都を通らず大阪へ直行する東海道のルートでもあったり・・・と、なかなかの歴史物語を刻むエリア、かつ京都の数多の観光スポットに対比してこの廃れ様。

 このギリギリの感じがこの先一体どうなるのか、山の勢い、自然の勢いに凌駕されて埋もれてしまうのか。。。堂本印象の鳥居を前に、京都府に寄贈されたことで存在を守られたのでもあろう私設美術館も合わせて訪れてみよう、と、この時改めて思った次第である。


京都府立堂本印象美術館

 

 大正から昭和に活躍した京都画壇の長の一人である日本画家・堂本印象。

 京都で暮らしていると、あちこちのお寺などの天井画や襖絵などで意識せずとも子供の頃から出会っている筈で、がしかし描かれた年代によって作風がいわゆる日本画から、抽象的なものまでとにかく幅が広いから、え!これも印象さん!、え!これも。。。と、作風の変換を時系列で感じることなくバラバラに出会うと少し、というかかなり混乱する。

 衣笠の立命館大学近辺を何かの用事で訪ねると、毎度否応なく目にする堂本印象美術館だが、まあいつでも来れるかと中に入った事はこれまで無かった。何よりその絵画作品は街のどこかで不意に現れて目の当たりにもするので、わざわざ見に行こうというきっかけには繋がらなかったのが主な理由だった。ただし常にこの建物の摩訶不思議な存在には心が留まってもいたので、あの鳥居の存在力といい、これまでの作風とその変遷に興味が湧いてきた。とにかく、トリッキーな作風経緯が立体物になるといよいよ分からなすぎる。つまり、大系的に見てみたい。と、その上で個人的にその作品に対峙して純粋に感銘を受けるかどうか。体感してみたいとも思った。

 

 手始めにちょうど良いと思って、現在行われている「大好き 印象の動物・鳥・昆虫」という企画展を訪れてみることにした。(写真は、外観及び館内のロビーとお庭しか撮影出来ないのでそれらだけ)。

 動物たちをメインに、あるいは作画の中に小さく現れる生き物を対象とした展示。スケッチから大作まで展示されていて、かつ、夏休みの子供たちにも親しめる様にか、説明も丁寧に示されていた。そして展示作品の全てには、小さな命に向けた上からでも下からでも無い、優しさとかひたむきで純粋な好奇心からくる観察眼によって筆が進められている様に感じてならなかった。何歳になっても何歳になっても、何度も何度も修練を重ねてスケッチされた痕跡の数々。

 

 展示の中で堂本印象の言葉があって、(ちゃんと一字一句メモできなかったのが残念)覚えている限りだが、対象によく目を凝らして、特に動くものにはよくよく観察して対象を追えば、やがてその対象の本質が見えてくる様になる、といった様な話が記録されていて、ああ、と思った。

 昨今(というか写真というものの誕生の歴史と起源には、あらゆる被写体を正確に記録したい、かつそれらを人に伝えたいという熱望と共に、これまでそうした願望の手段の一つであった、絵画のためのトレース道具でもあったから今に始まったことでは無いが)、写真を元にして絵を描く人、挙げ句は自分が撮影した写真からデッサンを起こすならまだしも、他者が撮影した写真を元に絵を描く人に対して、ううん、と思うことが頻繁にある。我々写真を撮る人間は、被写体のある瞬間の、ここだ、と思う所でシャッターを切る事を大事にしていて(で、あるべきとも思っていて)、実際にはその次の瞬間にはもう違った表情になる訳で、その前後もひょっとしたら、その対象の本質なのかもしれない。が、ここだ、と決める本質に迫るべく修練とその連綿たる行為こそ意味のある事であり、ある写真を元にそのまま絵を描いてしまうのは、確かに絵を描く技術力のみは上がるかもしれないけれどそれだけで、本質を見極める力とか、何よりそれは絶対的にその人の思う本質とは、違うんじゃ無いか?という疑問(というか確信)がある。誤解を恐れず言うならつまり、上手に描けたね。で、終わってしまってその絵は決して胸を打つことは無いというか(これはブーメラン的に写真自体も浅はかに他者のフレーミングを真似たり、何故それを写真に残したいのかの意味も求めず消費的にシャッターを切れば同じでもある)。

 がしかし、常に動きがあって変化のある、あるいはさほど動かずとも表面から滲むものや内生する何かを持つ対象に対して、それらをつぶさにどこまでも観察し、本質を見極めて頭と筆に記憶させながら描き出す画家という存在に対して、私はどこか常に、生業である写真というものの持っている根本的な卑しさとか、安直さとか軽さみたいなものになんとも言えない後ろめたさを持っていたりもするのだ。それはやはり、写真と絵画は違うものだ、ということを前提に。そしてその差を大切にしたいという思いも込めて。

 だから、そうした素晴らしい画家の精神が宿る画力に対して、心からの尊敬と、またその精神に近づくべく、修練を重ねたいとも、思う。

 

 ともあれ、長くなったが堂本印象の絵を今回まじまじと見て、やはり本当に凄い人だと改めて思った。そして、絵というものこそ遠くでなんとなく、あるいは印刷物でなんとなく見た気になっていては全く駄目だな、とも思った。写真も、オリジナルプリントの凄みというのはあれど、印刷物にした時の落差は、絵画の比では無い。実物を見ないと。

 

 作家の死後に建造されたゆかりの地での博物館や美術館は多くあれど、作者本人自らが生前に作った私設美術館というのも珍しくもあり魅力的である堂本印象美術館。作者本人のフィロソフィーを丸ごと、直接感じられる大変面白い場所と思います。

 皆さんも是非、足を運ばれてみては如何でしょうか。


谷口菜穂子写真事務所
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