4月半ばから、京都で毎年開催されているKYOTO GRAPHPHIE 京都国際写真祭。京都市内のあちこちが「写真」にハックされる月間も今日で終わり。
今回は膨大なイベント情報の中を、友人の展示会場と、普段あまり稼働してなくて空間が見れない(展示空間として気になっている)ギャラリー内部を見たいが為の知らない作家さんらの展示会場、それと、本日の最終日にして関連イベント「写真は誰のものか―予測するAIと再配置される主体」ー池上高志(物理学者/東京大学/大学院総合文化研究科特任教授)と新津保建秀(写真家/美術家)によるパネルディスカッションにのみ参加した。
イベントタイトルにしてなんとなくイメージしていた、生成AIによる写真は一体誰のものか、著作権とか、そもそもでそれは写真という従来の所有の枠をどう捉えるのか、という事でも話されるんだろうなぁ、という感じが良い意味で全く裏切られた内容だった。
新津保氏についてはテクノロジーを駆使する話かと思いきや実に感覚的にAIを捉えて自身の写真表現に用いておられることに始まり、共に協働で作品を作っている池上氏は、曰く「写真は対象を写しているので無く、撮影者の意識や嗜好性を写している」という冒頭断言でまずガツンとやられた(もはや、写真の記録性は敗北していると言う見解で個人的に一致している)。
「1000年に一度の革命」とAIの出現を捉え、既にAIはヒトの補完的役割からそのもの自体に主体性があること、この主体性を持つ存在をどう拘束するか、という未解決問題に議論が進んだ。ここでもはや、AIがヒトの優位性を超えていること、その一方でAIが今のところ持ち合わせていない欲望(デザイア)や生死の概念の無さへの危うさに対し、科学方面(突き詰めた結果、破壊的)に向かうでなく、今こそアートという、人の欲望が成せるが故になし得る(平和的)方向へと用いるべきという論調は実に興味深かった。と言うのも、学者ならではだが、「アートと科学は憎しみあっている所がある」との見解で、何らかの研究成果に対し、「けど、それってアートだよね」と嫌味に使う場面があるのだそうだ(恐らく、論理的な解明が為されていない研究に対して揶揄する場面に使うんだろうと解釈)。面白いな。
来場者質問の中で、「アートは過去性を帯びているのと、科学は常に未来を目指している所に結びつきが希薄なのでは?」と問われた際、池上氏曰く「そう思われがちですが、実は反対だと思うんですよね。科学は、これまでの研究成果の積み上げの取捨選択で次に繋げているのに対し、アートは(確かにアカデミックの場面で過去の作品を学ぶものの)えてしてアーキオリジー(考古学)を次につなげている訳では無いんじゃないか」と即答され、ああ確かに、と感じた一方で、写真は科学とも密接に関わってきたからこそ、過去性が強く、また過去性に反応する我々の感覚に呼応する面があったのかもしれないとふと思った。
クロウドAIによるClaudeの憲法(Claude's Constitution)」なる画期的な仕組みも初めて知った。これは、開発元のAnthropic社がAIモデルの倫理観や行動指針を定義した、一連の高レベルな原則とガイドラインを指す。曰くAIに「避けるべきこと」だけでなく、「なぜ特定の境界が存在するのか」という理由も学習させ、人間の価値観に沿った行動(憲法AI)をとるよう設計がなされているそうだ。
欲望も死生観も持ち合わせていない、ある意味では危険過ぎるほど無限にして無敵であるAIに対し、枠組みを設けるのに「憲法」を彼らに定める。この憲法の枠組みの中で彼らに主体性を持たせるという世界観は、全く我々人間社会と同義。
国連の枠組みを逸脱した戦争や、自国の憲法の行く末など、昨今の諸問題云々についてもかなり考えさせられた。
なんて時間なんだ!
と言うことで。
(いよいよ恒例の長文ながら)ここで書き切れないほどの学びを得た一方で、近頃この仕事をしていると必ず聞かれるのが、「AI活用されてます?」と言うのと、同世代同業者による「良かったよねぇ。我々もう、仕事の先が見えてるタイミングで。若い世代はこれから大変やろね」の言葉。これまで、私がなんて答えてきたかは、①「テキストを書くのも勿論、自分の写真で使うことは無い」のと、②は正直、よく分かってないからなんとも言えない、と言う事だったが、まだ、今回のトークを聞いても自身に落とし込めないままではあるものの、私はきっと、完全に周回遅れになるだろうという確信には至った次第。
今回明らかになったのは、自身の補完的役割で使うにはもう既にそれ自体が超えている事の再確認であり、その超えたものと共存するのは恐らく個人的には感覚的にも無理だろうと言うこと。加えて写真に関して言うなら、自分がこだわって、しかもまだ未達である表現への追及で、私は人生を終えるんだろうという確信である。
いつか。私は1枚の写真で二次元を越えた、五感を満たす、匂いや、肌触りや、音などを感じられるような表現にまで到達したいと思っている。出来るだけ手を加えず、今やアナログ認定な写真光学によって、自分がそこで感じた物語丸ごとを封じ込められるような。
確かに、AIに撮影者自身の欲望や感情を情報としてありったけ喰わせれば、それはきっと、撮影者自身の作品になり得るだろうと思う。そしてそれ自体を私は否定しない事も宣言するに至った。
ただ、私はこれから、1000年の節目と言われる世界から背中を向けて、積極的に後ろ向きに、写真そのものに対して朴訥と向き合っていければいいな、それしか無いよね。とも。
背後に何が起こっているか。それだけは把握しながら。
※写真はトークイベント会場を出た、すぐ近くの鴨川にて。まるで夏のような空が映り込む川面。都市化が進もうがAIが席巻しようが、圧倒的面積にして小さな存在の鷺の悠々さよ。存在もろとも、憧れるなあ。
